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2002年09月号 掲載 

安藤神社の春日大明神 
 
北宇和郡吉田町桜丁 

狛犬も武左衛門一揆が起きた村芳の治世につくられたもの
 子供の夏休みの宿題の「自由研究」につきあって町内の史跡を何カ所かめぐった。吉田の旧町内のほぼ中央にかつての村社、安藤神社がある。祀られているのは、吉田藩家老であった安藤儀太夫継明で、神社の境内は安藤の邸の跡であるという。安藤が神に祀られたのは有名な武左衛門一揆が発端である。寛政五年一七九三年、南伊予の小藩、伊予吉田藩伊達三万石を舞台にして、大規模な「百姓一揆」が発生した。紙の専売でひとり巨利を得ていた吉田藩の御用商人法華津屋高月家を標的にして、苛烈な圧政に困憊した吉田領八十三ヶ村の百姓七、六四六人が決起したのであった。百姓たちは吉田の宗藩である宇和島領内に行き、八幡河原(現在の宇和島市息吹町の八幡神社前のあたり)に集結した。この時、八幡河原の百姓たちの前で失政の責めを一身に負って切腹し、一触即発の危機を救ったのが安藤であった。安藤はその自己犠牲のゆえに吉田の人々から深く追慕され墓所の海蔵寺には幕末になって立派な霊廟が建てられた。ところが、霊廟への参詣者があまりに多いため、明治六年に邸跡に神社が建てられたのだそうだ。
 境内の東南の隅近くに御影石の鳥居と狛犬に守られた小さな社殿がある。近所に住む古老から、この春日神社は吉田のお殿様が建てたもので、とても大切なものだと言うことを聞かされたことを思いだし、子供たちといっしよに調べてみた。手前には切り妻の屋根がかかった小さな拝殿がある。社殿は「流れ造り」。正面の額には中央に春日大明神とあり、右側に小さな字で「享和二壬戌秋九月」とある。左側には「朝敬大夫藤原朝臣村芳」。村芳は吉田藩六代藩主であり、「武左衛門一揆」のときの藩主である。十六歳という若年で藩主になったため、藩政の乱れを抑えることが出来なかったが、一方で藩校の時観堂を創立して藩学の基礎を築き学問を奨励した人として記憶されている。手前の鳥居の文字は風化して何が書いてあるのかわからないが、狛犬の台座を見ると、「文化二丑年九月吉日」と書いてあるのが辛うじて読めた。

彫刻が美しい

春日大社 武左衛門一揆が起きた時の六代藩主伊達村芳が、陣屋の向かいの山中に建てたものであるが、 明治十二年、境内にうつされた。
 家に帰って年表を確かめると、「享和二壬戌」は一八〇二年。村芳の治世は寛政二年(一七九〇年)から文化十三年(一八一六年)であるから矛盾はない。さらに「文化二丑年」は一八〇五年であった。念のため吉田町郷土資料館「国安の郷」の秋田通子学芸員にお伺いを立てた。答えは明快。「文久元年吉田市街図を見てご覧なさい。太鼓場の正面の山に春日社というのがあるでしょう。あれを明治に遷したみたいよ。それと神社には安藤家の後ろの甲斐家の敷地も入っているでしょ」。私が一瞬、二十代の後半に近づいた村芳が安藤の慰霊のために、安藤の邸内に勧請したと思ったのはまったく早計であった。
 秋田さんのご教示で吉田町誌を見た。この春日神社は安藤神社の境内末社として明治十二年に遷されたと書いてある。すると、この春日神社は、一村一社を命じた明治後期の神社合祀令(一九〇六年)によって遷されたものではない。安藤様を崇敬する町の人々のはからいによって「安藤様」の仲間に加わったことになる。殿様のつくった神社を末社として遷座させたというのは、明治初期の変転激しい時代の雰囲気とおおらかで格式にこだわらぬ吉田の人気のあらわれでもあろうか。
 
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