過去の連載記事
同じ年の連載記事
2004年01月号 掲載 

城山の自然林と中井猛之進 
 
 

石垣と自然林
 宇和島は日本が太平洋戦争に敗れた昭和二十年の五月から八月にかけて、米軍による九回の空爆を受けた。約三百人の非戦闘員が殺され、町の大半が焼かれたという。今の宇和島の町並みに歴史を感じさせる風情が少ないのはこの空襲のせいである。その宇和島で、往時の姿をよく止めているのは城山の緑と天守閣ではないだろうか。廃藩後も残された国宝の追手門もこの空襲で焼け、湾は埋め立てられて海も少し遠くなったが、それでもなお、城山と天守閣は町の思わぬ場所からその姿を望見することができる。

児島惟謙の像
 宇和島を歩いた日に城山に登った。大津事件で知られる児島惟謙の像の脇を通り、搦め手の上り立ち門をくぐって石段を上った。草むす石垣の背後は南国の闊葉樹を主とした自然林に覆われている。戦前、伊達家が小石川植物園の園長も務めた植物分類学者、東京帝国大学教授の中井猛之進らに西海鹿島の植生とともにこの自然林の調査を依頼したことがある。この時の調査をまとめた小冊子を三輪田俊輔画伯にいただいた。中井はこの城山の自然林こそ後世に伝える故郷の文化遺産であり、城郭をつくるときに加えた以上の人工をこの貴重な自然林に加えるべきでないことを明晰に書き残している。この植物学者中井猛之進の息子が『虚無への供物』や『黒衣の短歌史』の中井英夫である。中井英夫と高野長英の血脈にあって、その伝記を書いた哲学者の鶴見俊輔とが小学校の同級生であり、さらにその鶴見が太平洋戦争下に軍属として送られたジャワ島で東洋一のボイテンゾルグ植物園の園長をしていた中井猛之進に出会う。(この間のエピソードは創元ライブラリ中井英夫全集八巻に鶴見が書いた解説をご一読いただきたい。中井父子の確執について触れた鶴見の文章は味わいが深い。
 鶴見は高野長英の伝記を書くために卯之町や宇和島を訪れて調査を行い、祖父後藤新平の書いた長英居住之地の碑を尋ねた。宇和島を共通項とする鶴見と中井の父、複雑にからみあい、しかも何の関係もないけれど、なにか不思議な因縁を感じる。

天守閣
 散歩の人とすれ違いながら郷土館の前を過ぎるとほんの少しで天台に着いた。石垣の端に立ち海の方を眺めた。かつては世界につながっていた宇和島の海である。西郷隆盛やパークスやアーネスト・サトウが入港した宇和島湾は埋め立てられて少し狭く城から遠くなってはいるが、素晴らしい眺めであった。
私は、天守閣に上がり、伊達宗城と天赦園をつくった宗紀の油彩の肖像画を観て山を下った。
 
Copyright (C) TAKASHI NINOMIYA. All Rights Reserved.
1996-2009