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2003年06月号 掲載 

魯迅が学んだ教室 
仙台市 
東北大学片平キャンパス 

現太陽産業 正面魯迅が学んだ仙台医学専門学校の六号教室(階段教室)。
東北大学片平キャンパス内に保存されている。
 先日、友人の案内で、仙台市の東北大学片平キャンパスに保存されている中国の作家魯迅が学んだという階段教室を見せてもらった。この教室は、もとは同じ片平キャンパス内の第二高等学校や仙台医学専門学校のあったあたりにあった。のちに現在の位置に移されたもので、もとあった場所には立派な魯迅の胸像がある。
 魯迅は一九〇二年に日本に留学し、東京の弘文学院という学校で約二年間、語学などの予備教育を受けた後、日露戦争が始まった一九〇四年に仙台に移り医学専門学校に入学した。有名な短編小説『藤野先生』(『朝花夕拾』一九二六年所収)にある通りである。あまりに指導が厳格に過ぎて、ほとんどの日本人学生から敬遠されていた藤野先生が孔孟の国、中国から来た留学生魯迅に対して実に親身な指導をする。そしてある日、魯迅はこの階段教室で細菌学の講義中に日露戦争のスライドを見る。その中の一枚に、スパイ容疑で日本軍に処刑される中国人を多くの中国人が見物する場面があった。歓声をあげながら戦勝のスライドを見る日本人学生に混じってそれを見ている自分の位置に魯迅は激しい衝撃を受ける。魯迅は医学を断念して仙台を去る。作家魯迅を誕生させたこのエピソードを思い多くの人がここを訪れる。太宰治にも文学報国会の依頼を受けて書いた魯迅と藤野先生をモデルにした『惜別』という小説がある。
 教室の外壁は下見板張りで、中は教壇に向かってわりと大きな傾斜の階段がついている。中央の列の前から三番目、教壇に向かって右端近くが魯迅の定席であったといわれ、机の上に小さな札が置いてある。ここを訪れる中国の人々はみな魯迅の席に一度腰を下ろし、記念に教壇の黒板に名前を書いていくそうだ。そして、黒板が名前で一杯に埋めつくされると、大学の係りの人が写真にとってから全部消し、又新たに訪問者が名を書き始めるのだという。

第二高等学校と仙台医学専門学校の正門。  明治40年頃
 藤野先生は医学専門学校が東北帝国大学医科大学に改組されたときに仙台を去り郷里の福井県三国に帰って開業医となった。魯迅は、増田渉が「魯迅選集」を出すに際し、如何なる作品を翻訳すべきか問うたときに、選択は適当でよいが、『藤野先生』だけは入れてほしいと語ったという。魯迅は藤野先生の消息を知りたかったのであろうが、それは魯迅の生前には果たされなかったそうだ。
 
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