第10回
 周防大島行 その1
柳井~三蒲
 
 

 (それぞれの写真をクリックすると大きくなります)
 宮本常一のふるさと

- 大島大橋 -

 私は、異常な暑さの続く10月のはじめに、『忘れられた日本人』などで知られる宮本常一のふるさとを訪ねてみたくなり、松山の三津浜港から自転車を携えて柳井行きのフェリーに乗った。リュックには最近、未来社から復刊された『私の日本地図 9 周防大島』を入れておいた。
 宮本常一の「私のふるさと」(昭和36年3月『家郷の訓』岩波文庫、ちくま日本文学全集『宮本常一』などに所収)には、渚や家のまわりの様子、神社の森の古木や通った学校、烏の生態までが細かく、生き生きと描かれている。中でも風の音や波の音について書かれた文章には深い味わいがある。佐野眞一も『『宮本常一が見た日本』((文藝春秋・のちにちくま文庫)に〈たとえば暑い夏の日々がつづいていても、夜半とつぜん森がシウシウ音をたてはじめると、私はアオキタとよぶ秋をつげる風の出たことを知った……〉のあたりを長く引用をしているが、ちくま文庫の宮本のアンソロジーに「山川の召命」という題で解説を書いた石牟礼道子も、同じ文章にふれて、次のように書いている。〈幼時二年ばかり、河口の潮のくる渚辺に住んだことのあるわたしは、このくだりを読んで衝撃をおぼえた。/当時その河口には潟堀り機械というのが居座って、夜となく昼となく音を立てていた。その機械音のやむ合い間は、渚に寄せては消える波の音がこよなくやさしかったのを思い出す。けれどもはて、それは東(こち)の風であったのか西の風であったのか。村の年寄りたちは知っていたろうに、まだなじみもうすくて、常一氏のようには耳に入らなかった。思い返すだに痛切なことである。/「森に風のあたる音と波の音ーそれは私の気象台であった」と氏はいわれる。わたしは、小さな舟の上に立って天をさし、指一本で風の方向を見定めていた漁師さんを知っている。自然と一体化して、川や海辺や山の神さまを祀ったり、四季のめぐりを感じて歳時記をとりおこなってきた生活文化とは、いかなる質のものであったか、その中に生きる人々はどういう心の持ち主であったのか、内側から明らかにしたいという一心が、氏をつき動かしていたと思われる〉。
石牟礼は、〈瀬戸内海の島に生まれ育った宮本氏もまた、彼方を夢みて旅の人となったが、その旅は山川の召命を受けて、人の住む大地を生起さすべく出発された趣がある。厖大な記述が書きとどめられたのは、解体の兆しをはらんだ日本の村々がまだかろうじてすこやかさを保っていた幸福な時期であった。氏の時代までは、人びとは、後に残して来た故郷の声を背負い、樹の下蔭に立ってそれとなく見送っていた祖父母とか古老の姿から、魂の片身をあたえられて出郷したのである。ふたたびかえることがなくとも、それは一人の人間の心の奥処(おくど)や夢にあらわれて、その人の一生につき添っていた〉とも書いている。
 私たちの故郷も今はおおよそ、宮本や石牟礼が愛惜した故郷の姿を失いかけている。かろうじてすこやかさを保っているといえばいえなくもないが、少し分け入ると山や田畑は荒れている。人もずいぶん減った。増えたのはコンビニくらいだ。
 佐野眞一は、周防大島と橋で繋がった沖家室島をとりあげて『大往生の島』を書いたが、宮本の故郷は日本でも高齢化率がいちばん高いところであるそうだ。過疎化が進んではいても、今のところ隣保社会が生きていて、お年よりたちが穏やかに、生き生きと暮しているという。そんなところを一度ゆっくりと見てみたい。もし空いていれば沖家室で佐野が泊まった民宿にも泊まってみようなどと思いついた。


- 三津浜五時発のフェリー -


- 朝焼けの二神島 -


- 頭島-
 三津浜港から柳井へ
 朝五時発のフェリーである。まだ暗く、二神島にさしかかる頃明るくなってきた。左手に周防大島を見ながら船は進む。甲板に出て、『私の日本地図 周防大島』の付録の地図で見えてくる島の名を確認する。大島の瀬戸ヶ鼻と情島の間を抜けて、船は伊保田の沖にさしかかる。右手には福良島、長島、続島と小さな三つの島が並んだ、そのすぐ向こうに戦艦陸奥が沈んだ柱島が見える。船は昭和46年刊行当時の付録の地図の航路とは違い、右手、鞍掛島と浮島と重なって見える頭島の間を通って久賀の沖合に進む。幣降島の沖から左に進むと、大島大橋が見えてくる。付録の地図の時代には橋はまだ架けられていない。大畠瀬戸と記されているだけだ。宮本は大正12年4月にはじめてこの瀬戸を渡って郷里を離れた。大島の北岸を通る航路で、ふるさとの港下田から乗船し、日前(ひくま)、久賀(くか)、三蒲(みがま)と寄港して、対岸の大畠に上陸し、大畠駅から汽車に乗った。宮本は以後数十年に渡ってこの瀬戸を一年に数回は渡る機会を持ったという。この瀬戸は宮本にとって最もなじみ深い海であった。親切で誠実な大畠駅の赤帽さんに世話になったことなども忘れ得ぬ記憶として書いている。
 円錐形の飯の山を見ながら、船が橋をくぐると行く手に笠佐島が見えてくる。間も無く柳井に到着した。


- 右が情島 -


- 大島大橋と笠佐島 -



- 椋野 椿山茂兵衛堂 -

 大島大橋から北岸を走る
 七時半。船を降り、港を出て右手に走る。最初のコンビニで水を買い水筒を満たした。しばらく海沿いに走ると、左に大島大橋に上がる道への分岐が見えてきた。ぐるっと回りながら登って橋にさしかかる。先ほどくぐった橋だ。橋の中ほどで写真を撮った。飯の山が見える。宮本が今は松が伐られて雑木山になりつつあるが、もとは松がよく茂っていたと書いている。大多麻根神社に賽して、飯の山の裾を走る国道437号を三蒲に向う。本に載っている桜並木や古い海岸風景は道路が拡幅されたりして大きく変ってはいるが、宮本の書いている当時の風景が想像出来ないほどではない。神社から広い道を下って三蒲へ。なるべく海沿いの集落の中を通る旧道を行く。椋野で、茂兵衛堂という案内看板を見て、山側に入った。急坂を登るとお堂があり、中に弘法大師の大きな像があった。茂兵衛さんは、椋野の人で、幕末から、明治、大正かけて、四国遍路を280回も歩き、人々から生き仏といわれた人だという。茂兵衛さんが立てた遍路の道標が今も四国に200基以上残っているそうだ。四国遍路は一周約1400キロという。280回歩くというのはただならぬことである。日本全国をくまなく歩いた宮本常一と、茂兵衛さんを周防大島の生んだ二人の歩く巨人だと呼ぶのは当然のことであろう。茂兵衛堂から国道にもどり、久賀に向う。


- 大多麻根神社 -


- 三蒲 -


Copyright (C) TAKASHI NINOMIYA. All Rights Reserved.
2009-2011