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2002年02月号 掲載
第10回 神田猿楽町の下宿〈その二〉
文/井上 明久

靖国神社の大村益次郎像(村田蔵六)洋式軍隊の
創設者らしく左手に双眼鏡を持っている。
 明治十八年の秋、子規十八歳の時に詠んだ句に、   朝霧の 中に九段の ともし哉  というのがある。二年前の明治十六年に上京した子規は、翌年九月に東京大学予備門予科に入学し、その翌年の明治十八年夏、大学での初めての夏休みを、上京以来二年ぶりに帰省し、故郷の松山で過ごした。人生の中で最も多感な時期の少年が、それも子規のように人一倍情熱的で夢想的な少年が、当時、文明開化の道を猛烈なスピードで疾走していた東京と、後に友人の漱石によって戯画的に『坊っちゃん』で描かれたような変わらない郷里の山河との間で、如何なる落差を感じたのであろうか。このまま出来ればのんびりと田舎にとどまっていたいと思ったろうか。帰っての何日間かこそ懐かしさにホッともしたろうが、出来れば少しでも早く東京へ戻りたいと思ったろうか。演説を好み、政治家になりたいと思い、その一方で哲学を勉強したいとも思っていた、果敢な夢と大いなる野心を抱いた少年・子規にとっては、恐らく故郷での時間はいささかまどろっこしく感じ、むしろ東京での喧噪の日々を近しいものに感じていたかもしれない。そして、二カ月の夏休みの後、再び上京した子規が、松山とはまるで違う東京の町と向き合って詠んだ句が、前記の「朝霧の中に九段のともし哉」であった。  大学に入った子規が、当時下宿していた神田猿楽町(さるがくちょう)と、靖国神社のある九段とはツイ目と鼻の先である。また、大学があった一ツ橋外とは牛ヶ淵の濠をはさんで隣り合っている。学校からの帰り、あるいは下宿からの散歩で、子規は何度となく九段を訪れていたにちがいない。というのも、当時の九段坂はその急なることが峻厳を以て鳴っていて、それだけに風景美としては強く訴えるものに事欠かなかったであろう。また、この坂上は江戸時代からの月見の名所として知られていたし、東京湾から房総の山々まで見渡すことができた。そして、明治二年に創建された招魂社は、明治十三年に靖国神社と改称するが、明治四年から三十四年までは本社前で競馬を催してそれが東京名物の一つとされたりする場所でもあった。
 大正六年に刊行された田山花袋の名著『東京の三十年』は、明治四年に上州館林町で生まれた花袋が、十歳で京橋南伝馬町の本屋に丁稚(でっち)奉公する明治十四年から明治末までの東京を描いて、巻を措く能わずの興趣に満ちているが、その中の一章「九段の公園」に、こんな一節がある。
 「春秋二季の祭祀の時の見世物小屋の光景がまた私に親しいなつかしい感じを起させた。『招魂社へ行くんだからお銭(あし)をお呉(く)れ!』こう言って私の二人の男の子などは、今も出かけて行くが、私もやはりそうした男の子であったのだ。


「九段のともし」の現在。
右は「トコトンヤレナ」の品川弥二郎像
 かなり大きくなってからは、夜一人で、見世物ではなしに、街頭にランプなどをつけて、いろいろな男が店をひろげているのを見て歩くのが楽みだった。易者、アセチリンランプ、焼つぎ屋、そういういろいろな男が、巧(たくみ)に客を寄せているのを見ると、その口上が一種の芸術であるかのようにすら私には思えた。くどき節をセンチメンタルな声で唄うものもあれば、剣舞をやって人をその周囲に集めている書生らしいものもあった。」
 子規よりも四歳年下の花袋が十代後半の頃の思い出だから、子規が訪れた頃も恐らくこんな光景が展開されていたのであろう。あるいは、胸を張って大学風(かぜ)を吹かせて歩いていた子規と、貧しい丁稚奉公の勤めの中からつかの間の慰藉を求めて訪れた小僧の花袋とが、作られた人垣の中で香具師の口上を聞こうとして思わず肩をぶつけ合ったりしたことがあったかもしれない。もう一度、花袋の文章を引用すれば、「九段の招魂社は、私に取って忘れられない印象の多いところである。上野公園もかなりに印象が深いがそれよりも一層九段の方が深い。」当時の九段は、その頃の東京を生きる人々にとってそういう場所だった。(作家)

 
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