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2002年06月号 掲載
第14回 千住、草加、西新井〈その一〉
文/井上 明久  画/藪野 健

北千住の横山家
 満二十七歳を迎えることになる明治二十七年は、後から振り返ってわかることではあるが、子規の生涯にとってなかなか感慨深い年である。
 それを語る前に、その二年前の明治二十五年に少しだけ戻る。この年の二月、小説『月の都』を脱稿した子規は、根岸八十八番地に転居する。 この地は、叔父・加藤拓川の友人で、新聞「日本」を創刊した陸羯南(くがかつなん)の住居の西隣であった。十一月には母の八重と妹の律を東京に迎え、三人の生活が始まる。 そして、恐らくは“生活”ということを考えたのであろう、翌十二月に子規は日本新聞社に入社する。
 そうした生活が一年ばかり続いた明治二十七年の初め、子規に一つの転機が訪れる。 論説を主にする大(おお)新聞「日本」が度々発行停止を受けるので、社主の陸羯南は家庭趣味的な小新聞「小日本」を発行することを決意し、その編集責任者に子規を充てた。 それを機に、陸宅の西隣から今度は東隣になる根岸八十二番地に転居する。 そして、この家こそが子規終(つい)のすみかであり、その時からおよそ八年と半年後、長く苦しい闘病の末、母と妹と門弟たちに見守られて命を引きとることになるのである。
 紀元節の日を期に二月十一日に創刊された「小日本」に、子規は早速その第一号から自分の小説『月の都』を連載する。 そして、一つの新聞の編集責任者として多忙を極める毎日が始まることになる。三月八日、松山の大原叔父に宛てて、子規はこんな書簡を出している。
「近来只多忙く……昨夜抔は大典に付明日の新聞へ附録相附候ため十二時過迄居残り家に帰り候へば一時それから飯くひ候へば一時半にも相成申候……幸に身體健全に御座候」
 夜中の十二時すぎまで働き、帰宅してからはあの健啖家の子規のことだ、時間も構わず母と妹の手を煩わせてあれやこれやと食べたのだろうな。 しかし、それもこれも「幸に身體健全に御座候」だからなのだ。 そう、この時の子規は夜中まで働いてもとりあえずは何ともない、そんなからだをしていたのである。 あるいは、一つの新聞を自分一個の才覚で賄えるという精神の充実感が、肉体の弱まりに歯止めをかけてもいたであろうか。
 ところが七月十五日、その「小日本」が発刊からわずか五ヶ月ほどで廃刊ということになり、子規はもとの「日本」に一記者として戻ることになってしまう。 七月下旬、子規は五百木飄亭(いおきひょうてい)に「毎日二時頃出社四時過退社……小日本よりだ大分楽に相成候」と書き送っている。 大分楽になったが、その楽さを果たして子規は喜んでいたか、物足りなく感じていたか。多分、後者なのではないか。 その無聊、焦躁、技癢、そして隠せぬ野心が、翌明治二十八年、日清戦争の従軍記者として子規を大陸に渡らせる原因(もと)になった、とも考えてみたいのだが。


根岸子規庵に近い金杉通り
 しかしながら、結果としてこの旅は子規にとってあまりにも無暴だった。三月三日新橋を出発し、広島、松山を経て、宇品から金州、旅順を巡り、五月十四日大連からの帰国の船の中で喀血。 結局、この時露(あら)わになった病状はその後根治することなく、一日一日と子規を死の床に縛りつけることになるのだ。つまりは、子規にとって明治二十七年という年は、「幸に身體健全に御座候」と言って思うさまからだを動かし、行きたいところにも歩いていけた最後の年であったのだ。 そして実際、忙しい時も、暇な時も、子規は実によくいろんな場所に出かけている。 まるで、もうすぐこんなふうに自由に歩き廻ることができなくなると、あらかじめ知っていたかのように……。  この年の初め、虚子が上京し、根岸の家に仮寓する。 その虚子を伴って二月のある日、千住から草加、そして西新井大師と歩いたのを記事にしたのが、三月二十四日の「小日本」に掲載された「発句を拾ふの記」である。

 
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