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2004年10月号 掲載
第42回 占いについて〈その二〉
文/井上 明久

雑司が谷の鬼子母神境内
 前回の後半部からひきつづいて、話柄は漱石の上に置く。
 自らはすすんで「易断に重きを置かない余」とは言いつつ、自分の未来について友人の子規や下宿先の和尚に占ってもらう漱石。無論、そこには「冗談半分」という断わりを入れてはいるが。
 この占いに対する態度とよく似ているものが、漱石には他にもある。例の異常なまでの「探偵憎悪」である。探偵という行為、探偵という職業、そして探偵そのものを、漱石は蛇蝎(だかつ)のごとく嫌悪し憎んだ。また、それが高じて自分が探偵から覗かれ探られているという、追跡被害の妄想に悩まされた。
 『吾輩は猫である』で苦沙弥先生が隣家の学生から探偵されているというエピソードは、読者からすれば大いに笑える滑稽な出来事だが、作者漱石の体験からすれば精神に辛く応えるものであり、それと向きあわねばならなかった妻や子供たちの心労は大変なものだった。
 それほど探偵を忌避する漱石だが、自己の作品の中ではそれと相反するように、遺憾なく「探偵趣味」を発揮している。とりわけ、『それから』以後の作品において。過去にある出来事が起こる。あの時どうして、という思いが謎として残り、それが登場人物の現在を、そして未来を動かしていく。
 例えば、絶筆となった未完の『明暗』では、あの女はあの時なんでこの俺を捨ててよその男のところへ嫁いだのか、という津田の疑問が全編を貫く謎であり、津田をはじめとする登場人物たちはその謎を追ってまるで「探偵のごとく」動きまわる。
 そして、登場人物にあれほど嫌っていた探偵行為そのものをさせているのが、『彼岸過迄』である。先走って言えば、これが何とも微に入り細に渡る探偵描写で、「漱石先生、あなたお嫌いではありませんね」と言いたくなるくらい、その筆はノッテいる。
 実際、田川敬太郎なる登場人物が神田小川町の電車停留所で行なう探偵行為の場面は、『彼岸過迄』全編の中でも最も興味深いエピソードの一つで、当時の膨張する都市交通の発達と、都会ならではの「探偵趣味」を巧妙に絡ませて大いに読ませる。
 いけない、いけない。「探偵」の方に話が傾いてしまい、肝心の「占い」を忘れてしまった。早速に話を戻すと、実はこの『彼岸過迄』という作品には、物語を進行させていく要因の一つに占いもとりあげられている。ここの場面もまた面白く、「漱石先生、本当は相当に関心をお持ちだったのでは」と茶々を入れたくなるくらいだ。
 まあもっとも、何を読んでも、どこを読んでも漱石は面白いのだから、とりたてて探偵や占いだけを言う必要もないのだが、憎んでいるだの重きを置かないだのと言われると、ついつい余計な口をはさみたくなってしまう。
 短編連作の形式をとる『彼岸過迄』の真の主人公は須永市蔵だが、物語全体の進行役、狂言廻しの役目をするのが、漱石の嫌いな探偵行為をさせられた田川敬太郎である。そしてこの敬太郎、漱石が重きを置かないと宣言している占いの現場にも立ち合わされている。よっぽど漱石から嫌われているのか。いえいえ、決してそんなことはない。むしろ充分に好かれている、と見た。
 敬太郎は、『坊っちゃん』の主人公、『草枕』の余、『虞美人草』の宗近君、『三四郎』の与次郎、『行人』の二郎などという系譜に連なる人物で、少し単純だが純粋で一本気で到底憎めない好漢として、漱石は愛情を持って描いている。彼等は考えるよりも動く方が先で、しかもその活発な行動にはいつも知的ユーモアが感じられる。
 こうした人物をひょっとして漱石は、『それから』の代助や、『彼岸過迄』の市蔵や、『行人』の一郎や、『こころ』の先生よりも愛していたのではないか。そして、こうした人物の遠い原型として、漱石はいつも若き日の子規を思い浮かべていたのではないか。  またまた「占い」から脱線してしまった。次回こそは。
(この項、つづく)

 
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