過去の連載記事
同じ年の連載記事

第71回 「東京の坊っちゃん」〈その13〉
文/井上 明久

- 吾妻橋より -
 おれは思わず、清に訊き返した。
「清、何だって?」
おれの強い問いかけに、清は1呼吸おいて、そしてその1呼吸の中に新たな力を吹き込む様にして答えた。
「坊っちゃん、起こして下さい」
おれは清の背中を抱きかかえて起こした。清は小さく軽かった。まるで縁日の綿菓子見た様に、力を押すと壊れてしまいそうだった。おれは清の背中に座布団を何枚か積んで突っ支棒にし、それから綿入れを清の肩に掛けた。その綿入れですら身に応えるのか、清の呼吸が整うまで少時時間がかかった。
おれは枕許の水差しから茶碗に水を入れ、か細くかさかさした清の手に渡した。清は1口だけ水を含み、おれに茶碗を戻した。おれはその茶碗を両手で持って膝の上に置いたまま、清が口を開くのを待った。
「坊っちゃん、長い話は出来ません。でも、死ぬ前にこの事だけは坊っちゃんに言っておかねば、清は死んでも死に切れませんので……」
「清、死ぬなんて事は考えずにいておくれ」
「いえ坊っちゃん、清には判っております。だから今、坊っちゃんに話さなければいけないのです」
「判った、判ったよ。だから、何でも話して、そして死ぬなんて考えずにゆっくり養生しておくれな」
「有り難う御座います」
清は滲み出た涙を、折れそうな指でゆっくりと拭った。清の体の中にはもう涙もそう沢山は残っていないのか、一条流れただけで止んだ。おれにはそれが妙に悲しかった。もしかしたら、涙の量が命の量に等しいのかも知れない。だから、多く泣ける人間はそれだけ多く生きる力を持っているのかも知れない。清の渇いた涙を見ながら、おれはそんな風に思った。
「坊っちゃんも知っての通り、清の家は瓦解のときに零落しました。今更の事ですが、徳川さまの頃は随分と華やかな暮らしもしましたが、それも薩長の芋……、いえいえ詮無い事は止めましょう。坊っちゃん、清にはひとり娘がおりました。名は千代と言い、親目欲目ではなくそれはそれは美しい娘でした。また、見目ばかりでなく心根も美しく、自分よりも相手を先に先にと思い遣る娘でした」 そう言うと、清はおれの方に手を差し延べた。おれは持っていたままの茶碗を清に渡し、清はそれを1口含んでおれに戻した。おれはまたその茶碗を持ってまま、清の口が開くのを待った。
「千代は我が身の事よりも先ず親の身を考えました。それは千代にとっては考えるよりも先に心と体が動いてしまう事でした。自ら桂庵に行き、本郷の料理屋に口を見つけて働き出しました。そこに、坊っちゃん、貴男のお父さまが見えられ、何度か通って来る内に、どうしても千代に1軒を持たせたいと仰有ったのです。
元より好きで勤める仕事ではなし、又本人ばかりか親の私達にもそれ以上の手厚い扱いをお約束下さったせいでしょうか、千代は貴男のお父さまの言葉を受け容れ、龍岡町の裏町で暮らすことになりました。そして、それから1年半程の後、千代は、坊っちゃん、貴男を産んだのです」
「…………」
「産後の肥立ちが悪く、千代は坊っちゃんを産んでふた月後に亡くなりました。どういう話し合いが貴男のお父さまと奥さまとの間にあったかは存じませんが、お父さまは坊っちゃんをご自宅に引き取られました。それから半年も経たずに、私の主人が千代の後を追う様にして世を去りました。
ひとりぼっちになった私を哀れんでくれたのでしょう、貴男のお父さまは下女として私を雇ってくださいました。もちろん、奥様にも、そして坊っちゃん、貴男にも、決して私の身分を明かさぬ様に堅く申し渡された上でですが。坊っちゃん、清はどんなに貴男のお父さまに感謝したことでしょう……」  
Copyright (C) AKIHISA INOUE. All Rights Reserved.
2000-2008