過去の連載記事
同じ年の連載記事

第62回 「東京の坊っちゃん」〈その4〉
文/井上 明久

- 松島五大堂「すずしさや島から島へ橋つたひ」子規 -
 おれが土産(みやげ)に持参した神楽坂の五十鈴(いすず)の甘納豆と最中が奥さんによって運ばれた。奥さんにしてみればいい迷惑かも知れない。しかし、おれはそうと知りつつ小川さんには必ず甘い物を持って行く。好きな物を前にした時のまるで小供に還った様な小川さんの顔が見たいからだ。
 菓子を盛った皿を奥さんが置くか置かない内に、早速に小川さんの腕が延び、それが口中へと運ばれる。老人らしからぬその動作の素早さは何とも小気味良い。そして、この世に悩み事なぞ何一つ無いかの如き安寧円満な小川さんの面持ちに、おれは思わず微笑を誘われる。こんなおれ見た様な男でも一寸(ちょっと)は物の役に立つのかと有難くなる。
 けれども奥さんは、小川さんとおれの丁度真ん中辺に視線を投げながら、
 「余り過ぎるものではありませんよ」
 の一言を確(しっか)りと残して部屋を出て行く。おれはきっと奥さんは唐紙の向こうでしばらくは耳を澄ましているなと思うので、小川さんがすぐに何か言い出しはしないかと気になった。でも小川さんは今しがた喉を通過していったばかりの嚥下物に対する愛惜と余韻にたっぷりと浸っていて、そんなおれの心配なぞどこ吹く風といった様子だ。
 そして恐らくは奥さんも唐紙から離れていったと思われた時、小川さんはそうした奥さんの日頃の行動を疾(と)うに知っているかの様に、それでも充分に声を潜めながら、
 「どうか君と半分半分に食べたことにして下さいよ」
 と言って、第二弾の腕を延ばした。
 それから幾許(いくばく)かの時が経ち、結局のところ、甘納豆と最中の五分の一程をおれが食べ、残りの五分の四程が小川さんの腹中へと納まった。おれは満足した。
 皿の中の物が空になったところで、徐(おもむろ)に小川さんはおれに話しかける。
 「残念でしたな、街鉄は。君には良かろうと周旋したのだが、生憎(あいにく)となって済まん事をした」
 おれは慌てて居住いを正す。穴があったら蟻の穴にだって入りたくなる。
 「本当に申し訳ありません。全く以て言葉がありません。折角の御配慮をこんな形で単簡に無にしてしまいまして」
 馬鹿を絵に描いて、額に入れて、広い往来に飾っている様なこんなおれに、それでも小川さんは飽くまで優しい。
 「いやいや、幾ら一本気な君だってそう単簡に行動した訳ではありますまい。そこには随分と入り組んだ経緯(ゆくたて)があったのではないですか」
 もう蟻の穴どころか虎穴(こけつ)にだって飛び込んでしまいたくなる。
 「いえ、そんな風に仰有(おっしゃ)られると冷汗掻右衛門(ひやあせかきえもん)で、それが誠にお恥しい話ですが、さ程に入り組んでもいないのです。いえ、実を申せば単簡そのものなのです」
 「そうですか。ところで、その、何とか柿右衛門(かきえもん)とか申すお方は如何なる御仁(ごじん)かな。やはり陶工か何か……」
 もうこうなると冷汗どころの話じゃない。全身、濡れ鼠だ。呂律(ろれつ)が妖しくなる。
 「いえ、あの、陶工とかそういう者ではなく、その、兎(と)にも角(かく)にも、かきえもんさんとは何の関わりもなくただ私一個の不始末が招いた結果です。全く何処(どこ)から何処まで面目次第もありません」
 「若い人にそうそう恐縮されても年寄りは困るばかりです。よろしいじゃないか、まだまだ将来(さき)がたっぷりとある身なのですから、一度ぐらい仕事をしくじったからといって小さくなる事はありませんよ」
 いえ、もう二度目なのですと改めて念を押すのも申し訳なく、おれはただ黙っていた。するとその時、唐紙の向こうから奥さんの大声が聞こえてきた。
 「貴方(あなた)、御客様ですよ!」
 
Copyright (C) AKIHISA INOUE. All Rights Reserved.
2000-2008