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2004年03月号 掲載
第35回 藍染川幻影(その十一)
文/井上 明久
第四章 黄昏橋(つづき)

谷中の寺と寺の間の路地
 「今日は天王寺町の方を避けるのかい。いいじゃないか常さん、堂々とこの前のように銀杏(ぎんなん)横町を通ろうよ」
 「別に避けている訳じゃないさ。ただ今日は墓地を歩きたい気分なだけだ」
 そう言い返す言葉にもいつもの押しや強さが感じられない。しかしながら、それは無理もなかった。昨日、自信をもって手渡した労作が蝸牛の許から送り返されてきた。それには委曲を尽くした懇切丁寧な手紙が添えられていて、極めて客観的な極めて理の通った意見が述べられていたが、約(つづ)めるところは作品の根本的意義に対する否定的な評価だった。
 Mは最初かっとなって頭の中が暑くなった。その後、急激に全身が冷たくなった。まるで思いもしなかったことがまるで思いもしなかった形で唐突に投げつけられた驚愕で、体中が凍りついたようだった。それほどにMには自信があったし、そういう自分自身に疑問を持っていなかったからである。どれほどの時間が経ったろう。少しずつ血の気が戻ってきて、それにつれて目の前の文字がもう一度正しい形で見えるようになった。
 「そうやって読み直して見ると、蝸牛の言うことはいちいち尤もで納得させられるのだ。いやそうじゃない、いやそうじゃないと一度は反駁してみるのだが、どうしても覆(くつがえ)すことはできない。その言があまりにも的確なだけに、どうにもひどく応えてしまうのだ」
 「やっぱりそんなものなのか」
 「ああ、やっぱりそんなものなのだ。悔しいが、蝸牛先生には到底歯が立ちそうにない。世の中には大きな壁があることを強(したたか)かに思い知らされた気がするよ」
 「しかし、常さんらしくもないじゃないか。一回ぽっきりのことで、そんな風に諦めてしまうなんて」
 Nは精一杯にMを鼓舞した。こんなMを見るのは初めてだったし、いつも変わらぬMの快活さと向日性こそがともすれば萎えがちな自分の心を支えてくれていると思っているNは、何としてもこんなMは見たくなかった。この時Nの心を衝き動かしていたのはエゴイズムに他ならなかったが、そんなことが少しも気にならないほどに、Nは只管Mを元気づけたかった。
 「有り難うよ金さん。そう言ってくれるのは金さんばかりだ。なあーに、大丈夫だって。あと二晩か三晩もすりゃあ、こう見えたってもとの常さんに戻るから」
 「ああ、是非ともそうなっておくれ。そりゃあ確かに蝸牛先生は偉いに違いない。しかし、何も蝸牛ひとりが小説というものでもあるまい。常さんは常さんの小説を作ればいいじゃないか」
 「何だ、こっちが少し大人しくしてりゃあそれに付け入りやがって。生意気を吐(ぬ)かすんじゃねえよ、ええ金さん」
 「そうだそうだ、その調子だ」
 「何がその調子だ。そんならひとつ金さんも小説を書いてみなよ。そしたら俺がたっぷりと蝸牛張りに評してやるから」
 「小説ねえ……。ま、しかし、そんなことが万が一にもあったら、その時は常さんじゃなくてやっぱり蝸牛先生に評してもらうよ」
 「あっ、言いやがったな」
 MはNの頭を殴る真似をしながら、大きく笑った。もっとも、その笑いには少し無理をしているところがなくはなかったが、Nも釣られて笑うことができた。
 二人は昏れ初めた谷中墓地を抜けると、茶屋町から三崎坂(さんさきざか)を下りかけた。少しして左へ入る最初の小道が現れた時、Nは無言の内に谷中坂町の方へと向かうその道を曲がった。普段のMならば歩く道の選択には口を挟むのだが、今日は天王寺町を迂回することだけで頭がいっぱいで他はどうでも構わないらしかった。
 Nがそちらに足を向けたのには無論いくらかの淡い期待があった。そして近づくにつれて、場合によっては隣りにいるMの存在を力にしてその家の玄関の戸を叩いてもいいとさえ思い始めた。Nはそんな自分を少し奇異に感じた。そうして、この変な昂揚感は何だと訝(いぶか)った。
 谷中坂町の幾重にも折れ曲がった坂道を下りた先に、その家はあった。生け垣をめぐらせた平屋建てで、木の引戸の門を構えていた。表札には道子の叔母の嫁ぎ先の姓が書かれてある。誰の家なんだという風にMは無言でNに目配せをする、Nは簡単に説明する。

 
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