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2005年12月号 掲載
第56回 ひっぱり廻す子規〈その二〉
文/井上 明久

- 興福院の菊 -
 与次郎が三四郎をひっぱり廻す様は、こんな風である。一週間に四十時間もの授業に出席して、それでも物足りなく、また楽しくもないという三四郎に対して、与次郎は「馬鹿馬鹿」と断定し、「下宿屋のまずい飯を一日に十辺食ったら物足りる様になるか考えて見ろ」と、適切なんだかピントはずれなんだかよくわからない警句を吐く。
 それから、三四郎を本郷四丁目から電車に乗せて、新橋へ行き、日本橋へ引き返して、「どうだ」と聞く。次に料理屋に連れていって、晩飯を食い酒を呑んで、「どうだ」と聞く。さらには寄席へ連れていって、小さんの落語を聞いた後、「どうだ」と聞く。そして、小さんと円遊の芸の違いを指摘しつつ落語論を語り、「どうだ」と聞く。
 この『三四郎』が「朝日新聞」に連載され始めたのが明治四十一年九月で、それと全く同時期の『ホトトギス』に掲載された「正岡子規」と題された談話で、漱石はこう語っている。
 「彼は僕などより早熟で、いやに哲学などを振り廻すものだから、僕などは恐れを為していた。僕はそういう方に少しも発達せず、まるでわからんところへ持って来て、彼はハルトマンの哲学書か何かを持ち込み、大分振り廻していた。(略)
 又彼には政治家的のアムビションがあった。それで頻りに演説などをもやった。敢て謹聴するに足る程の能弁でもないのに、よくのさばり出て遣った。つまらないから僕等聞いてもいないが、先生得意になってやる。」
 小難しい哲学を振り廻し、得意になって政治的な演説を打(ぶ)つ。そんな若き子規を前に、少々辟易している若き漱石が目に見えるようではないか。後(のち)のことを考えれば漱石が哲学に暗かったとは思いにくいが、この頃はまだ晩生(おくで)だったのだろうか。早熟な天才肌の子規に圧倒されっぱなしだったのだろう。
 また、子規が大して能弁ではなかったという指摘も興味深い。まあ四十歳を過ぎた漱石の二十年ほど前の思い出なので多少は割引かねばいけないし、相手への変わらぬ敬愛ゆえに発した多少馴れ合いめいた軽口でもあるだろう。ただ、江戸っ子の漱石にしてみれば、南国伊予の子規の語り口にはどうしてもまだろっこしさを感じ、それが子規は能弁ではないという印象を残したのかもしれない。そんな思いの漱石を前に、滔々と演説を繰り返してやまない子規の姿が何とも微笑(ほほえ)ましい。
 「何でも大将にならなけりゃ承知しない男であった。二人で道を歩いていても、きっと自分の思う通りに僕をひっぱり廻したものだ。もっとも僕がぐうたらであって、こちらへ行こうと彼がいうと其通りにしておった為であったろう。」
 与次郎と三四郎のやりとりが髣髴としてくるようではないか。こんな子規に対する回想が『三四郎』を書き進める漱石の筆の先から、与次郎像の一面を形作ったような気がしてならない。
 漱石に、明治四十四年七月に発表した「子規の畫」という小品がある。
 「余は子規の描いた畫をたった一枚持っている。亡友の記念だと思って長い間それを袋の中に入れて仕舞って置いた。」
 というのが書き出しで、その絵が一輪ざしに插した東菊という、極めて簡単な図柄なものだと説明している。そして、俳句や歌を作る時や文章を綴る際にあれほど闊達自由にふるまった子規が、絵を描くと堅くて真面目で、「拙」を免れ難いと指摘する。
 「子規は人間として、又文学者として、最も『拙』の欠乏した男であった。永年彼と交際をした何の月にも、何(ど)の日にも、余は未だ曾て彼の拙を笑い得るの機会を捉え得た試(ためし)がない。又彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえ有(も)たなかった。彼の歿後殆ど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余の為に描いた一輪の東菊の中(うち)に、確に此一拙字を認める事の出来たのは、其結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余に取っては多大の興味がある。」
 漱石をして、人間として文学者として最も「拙」の欠乏した男と言わしめた子規の凄さが感じられる。
〔この項、了〕

 
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