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2003年05月号 掲載
第25回 藍染川幻影(その一)
文/井上 明久  絵/藪野 健

墨田区向島 三囲神社
 前回まで二十四回、明治十六年、十六歳の時に上京して以来の子規の行動を、気随気儘に時間を移動させながらたどってきた。毎回、四百字詰原稿用紙で四枚と少し。これまででおよそ百枚となった。その枚数も切りがいいし、今回は二十五回というこれまた切りのいい数字でもあるので、ここからしばしの間、少し気分を変えて、「インテルメッツォ」(間奏曲)に入りたい。もっとも、間奏曲にしてはいささか長めのものになるような予感がしているが、何回か前に本文中にも記したように、もともとできるかぎりノンシャランに、なるべく勝手放題に、と心がけて書き始めた本稿なので、その程度の形式破りを気にすることもないだろう。さて、この「いささか長めの間奏曲」を書くにあたっては、これまでの二十四回の随筆風スタイルをとりあえず休んで、小説(になっているかどうかは甚だ怪しいので)風に進めていきたい。以上、これまた「いささか長めの弁解」となった。


  藍染川幻影
    第一章 逢初橋

 春まだ遠い二月の初め、二人の若者が駒込追分町の下宿を出ると、駒込逢莢町の寺町を抜け、団子坂の方に向かって歩を進めた。
 一人は目、鼻、口のいずれも大きく、顎の張った四角い顔はいかにも利かん気で、まばらに生やした無精髭がそれを助長していた。もう一人は整った目鼻立ちながら子供の時の疱瘡の跡がうっすらと残っていて、それがこの若者を実際以上に醜くしている風があった。背丈はほとんど同じくらいだが、四角い方は怒り肩で疱瘡の方は少し猫背気味なので、どうしても前者の方が一廻り大きく見える。声も怒り肩の方が大きく、話す量も猫背より何倍方か大抵多い。


谷中界隈

根津 よみせ通りの下駄屋
 「いやあ、大いに苦労したがどうやら目処がついた。あともう一踏ん張りだ。なあーに、ここまで来れば終りは見えている。暮からこっち、わざわざ寮を出て一軒家の離屋を借り受け、皆に義理を欠いて面会謝絶までして始めたことだからね、何としてもやり遂げねばならない。しかしね、大変は大変だが小説というものは面白い。どうだ、貴公も書かんか」
 「ふーむ、小説ねえ……」
 語りかけられた方は言葉数も少なく、返事の調子にも乗り気がない。語りかけた方はもともと自分の意見を他人に強く反映させたいといった大将風を吹かせる気質があり、それがこの若者の器の大きさを示す点であるとともに、人によっては敬遠されることにもなった。しかしこの二人の場合は、兄弟の役割の判然していることがかえって互いを近しくしている風があった。

 「そう何にでも引っ込み思案じゃ、将来、碌なものになれんぞ。それで一体全体、何をやりたいのだ」
 「いや、それがわからないから困っている。どうも僕は常さんのようには事を決める力がないんだ」
 常さんと呼ばれたのは無論怒り肩の兄貴分の方で、その姓の頭文字をとってここからはMということにする。そのMがすぐに言葉を返す。
 「だからそれじゃ駄目だっていつも言ってるじゃないか。事は常に即断即決だよ。事態は刻々と変わっていく。それに応じて素早く事を決める。そうしないと人であれ物であれ捉まえることはできない。何も、変わることを怖れる必要はないんだ。第一、そう金さんみたく最初から根本義に捕われちゃ剣呑でいけないよ」
 金さんと呼ばれたのは無論少し猫背気味の弟分の方で、同じくその姓の頭文字をとってここからはNということにする。そのNは言葉弱く言い返す。

 
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