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1998年12月号 掲載

 
ペレン(ブラジル) 
関 洋人 (大洲市在住)
 レストラン・ハカタは、入口の側の壁がまったく吹きさらしで、倉庫のような簡素なつくりの建物だが、天井が高く、フロアーの広さは優に百坪以上はある。店内には、四角いテーブルが所せましと並べられ、百人ほどの客がピンガというサトウキビの焼酎やビールなどを飲みながら食事をしていた。私とドクトルは、空いているテーブルを見つけて腰を下ろした。見まわすと、客席の前の方には、舞台もしつらえてあって小さなバンドの伴奏で客たちが思い思いに舞台に上がって歌をうたったり踊ったりしている。
 ハカタの従業員はこの国にしては珍しく実に敏捷だ。客が席に着くとすぐに注文を取りにやってくる。私たちは名物の泥ガニを二皿と、海老を二皿、それにビールとミネラルウォーターを注文した。料理が出てくるのも驚くほど早い。ブラジルではサンドイッチ一つ食べるのに一時間近くも待たされたり、勘定をするためだけに三十分以上もかかったことがあることを思えば、これは経営者であるヤノサンの教育の成果に違いない。
 給仕が、皿に山盛りになった泥ガニと一緒に持ってきた小さいが、ずっしりしたこん棒で泥ガニの殻を叩き割り、ピメンタのソースにひたして食べる。薄暗い混み合った店内で、汁を飛び散らしながら、ひたすらカニを頬張っていたら二十代半ばの女性が片言の日本語で話しかけてきた。我々は、てっきりプータ(娼婦)かと思ったが、見ると首からカメラをぶら下げている。プータにしては妙な出で立ちだ。実は彼女は日本から帰ってきたばかりで、ここハカタで客の写真を撮って翌日に出来た写真をその客に売るという商売をやっているのだった。その日は、カニと海老を食べ、ビールを飲んで二人で二千円の勘定だった。店の外に出ると屋台で一夜を過ごす多くの人たちがいた。
 翌日の夜も私たちは再びハカタへ出かけた。今夜は大晦日のせいか客は少ない。また例のカメラ女がいて、我々のテーブルにやってきて話し込む。彼女が片言日本語、私が片言ポルトガル語、ドクトルが片言スペイン語の面妖な会話である。彼女は最近まで六ヶ月間、岡山県倉敷市のとある薬品会社で包装の仕事をしていた。給料は始めの三ヶ月が月額千八百ドル、後の三ヶ月が月額二千三百ドル。ブラジル在住の私の友人の獣医師が月千ドルで高給取なのだから、この金額はかなりのものである。その彼女が突然「あなたはカナイズミ知っていますか?」と聞き、うどんの“かな泉”のコマーシャルを真似てみせた。「私カナイズミ五百円大好きです」アマゾン赤道直下のマンゴー並木に覆われた街ベレンにさぬきうどんチェーン店、かな。ニッポン泥棒いない。ヤクザ少し。来年の六月から私、また、倉敷で働きます」彼女は、とても日系人には見えなかったし、本人もそうとはいわなかった。……が、今思えば、彼女は黄金の国JAPANへのデカセギーズ(この言葉はブラジルでは完全にポルトガル語になっている)の先陣を切っていたのだ。


ペル・オ・ペーゾ、レストラン・ハカタのある界隈
 後日談になるが、この旅から帰って二年後、蜜柑の出荷時期に八幡浜の真穴農協に働きに来ていた日系ブラジル人のTさん一家と話す機会があった。偶然にも彼らはベレン出身とのことだった。それ故、「ハカタ知ってますよね?」と聞くと、何と奥さんの方が「もちろん。私はハカタで働いていたことがありますから。あなたもヤノサン知ってますか?」と逆に聞き直された。世間はホントに狭い。
 その大晦日の日、われわれは泥カニを五皿、海老を二皿、骨付き若鳥の揚ものを一皿、焼きソバ一皿を食べ、ビールとミネラルウォーターを飲んだ。勘定は邦貨約三千円。店の外には年越しを祝う、花火と爆竹の轟音が響いていた。
 それから七年の歳月が流れた去年の暮れ、私は再びベレンを訪れた。私の足は自然とハカタに向かった。が、確かにそこに在ったと思われる場所には建物の名残すらなく、諸行無常の感にひたった…。
(つづく)

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