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2005年06月号 掲載

 
 
関 洋人 (大洲市在住)

露天でアカラジェ(揚げ物)を売る女性
 北米への移民が、はじめから農業に従事する家族ぐるみのものだったのと異なり、南米への初期の移住者たちは、エル・ドラード(黄金郷)をめざす男性のみの単身冒険者が主流だった。彼らとともに海を渡って来た女性は極めて少数であったため、必然的に、彼らの有り余る精力は、先住民や黒人に注ぎ込まれることになった。ブラジルは植民地時代のごくはじめから混血社会に向かっていたのである。ブラジルで混血が進んだ原因は、移民の男女比のアンバランスのほかに、移住してきたポルトガル人自身が数百年に渡ってアラブ人の支配を受け、異なった人種や文化と身近に接してきた経験が蓄積されていたことがあげられるだろう。当時すでにポルトガル人は、相当程度アラブ人と混血していたし、ポルトガルにはかなりの数の黒人が居住していたこともあったため、異人種との混交には極めて寛容であったという。ポルトガル人が備えていた、異なる文化や人種に対するこのようなおおらかさが、ブラジル文化の寛容性(場合によって素晴らしいと言いたくなるようないいかげんさ)を決定的なものにしたと思う。
 ポルトガル人植民者は、どこでも黒人女中を雇っていたが、ポルトガル人は彼女たちが作るアフリカ料理をアレンジした食事を少しの抵抗感も持たず、喜んで食べたという。現在、ブラジルを代表するとされる料理(煮豆料理のフェジョアーダがその典型)の多くがいわば、アフロ・ブラジル料理ともいうべきものだ。どこへ行っても日本料理を求める日本人とは、大きな違いがある。ブラジルでは人種問題が引き金になる文化的摩擦といったものが非常に起こりにくい。サンパウロの日系人が主催する『日本祭り』では、日系人でも何でもないサンパウロ州知事とサンパウロ市長が揃いの法被姿で登場し、喜々として、ペッタンペッタンと餅つきに興じている。  治安の悪い、バンギバンギのならず者社会の一面を持つブラジル社会は、他の一面では、自分たちと異なる何者をも許容し包容する優しさの溢れた社会でもある。これまた、管理社会が閉塞感を強めていく日本とはえらい違いだ。
(つづく)

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