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2000年03月号 掲載
 音楽座ッミュージカル
アイ・ラブ・坊ちゃん2000
-見事な漱石の舞台化- 
作家 井上 明久




 もちろんそのすべてを観ているわけではないが、漱石作品の映画化や芝居化は往々にして退屈なものが多い。それは、身も蓋もないことを言ってしまえば、原作となるものが先ずあまりにも面白いからである。そして、あまりにも複雑で謎に満ちているからである。大胆に言いきってしまえば、漱石の作品は“ミステリー”なのである。それも、犯人の捕まらないミステリーなのだ。あるいは別の言い方をすれば、個々別々に複数の犯人がいて、そのいずれもが真犯人なのだ。犯人が捕まらなかったり、これが真犯人と特定できないものなどつまらない、という向きには漱石は無縁である。たとえば、『こころ』の先生が何故自殺をするのか。そこに一つの答えはない。読んだ人それぞれに答えがあり、読んだ時それぞれに、答えがある。漱石の作品にはそれだけの幅と奥行きがあるのだ。
 そうした作品を映画化したり芝居化するということは、スクリーンの中であれステージの上であれ、俳優という限定された人間を通して限定された表現をすることになる。つまりはその結果ほとんどの場合、一つの答えを、ただそれだけを言うことになる。どうしたって原作と比べて狭く薄っぺらいものになってしまう。これまでの僕の個人的な体験でその唯一とも言っていい例外が、森田芳光監督『それから』(85年)である。この映画の成功の理由は、代助に松田優作、三千代に藤谷美和子というおよそ漱石の原作からは想像もできない突飛で現代的なキャスティングと、森田芳光独特の謎と飛躍を含んだ果敢な映像的冒険にある。
 ところが先日、僕にとって二つ目の例外に出会うことができた。音楽座ミュージカル『アイ・ラブ・坊っちゃん』がそれである。正直に言えば、観る前はそれほど期待しなかった。『坊っちゃん』で、しかもミュージカル。ううーん、ちょっとね、という感じがした。『坊っちゃん』はいかにも単純明快でわかりやすいと思われていて、それゆえに映画化や芝居化が何度もされているが、いいものがない。実は『坊っちゃん』には結構多くの謎が含まれていて、読むたびに新しい発見があり、見た目ほど単純でも明快でもない、そういう作品なのである。決してこども向きの作品ではないのだ。
 けれども、『アイ・ラブ・坊っちゃん』の幕が開き、芝居が進行するにつれて、これはなかなかにスゴイぞと思わず身を乗り出してしまった。そして、見終わった時、大きな感動が僕を包んでいた。この舞台の第一の素晴らしさは、何と言ってもその構成にある。誰もがよく知っている『坊っちゃん』のストーリーと、誰もがそれほどは知らない夏目漱石のライフストーリーを並列させ、『坊っちゃん』の創作に苦しむプロセスの中に、新しい人生そのものを創造しようとする漱石の苦悩を重ね合せた舞台様式は、重層的かつ多面的であり、実に斬新な効果を上げている。
 また山嵐役と正岡子規役を同じ役者が演じるところにこの作品のテーマがあり、漱石における子規の存在の大きさと深さがよくわかる。目前に迫った限りある命の中で、明るく、強く、豪快に自分の人生を生き切らんとした子規の姿は、漱石にとって永遠の憧れであり、人間としての理想でもあったろう。坊っちゃんと山嵐には、漱石が実人生では決して持つことのできなかった人間性の一面が、憧れと理想をこめて描かれている。
 さらにミュージカルとしての楽しさが十分に味わえることも特筆したい。「アイ・アム・ア坊っちゃん」、「風を見て」、「アイ・ラブ・坊っちゃん」、「きっとどこかに」など一度聴くと長く心地よく耳に残るナンバーが数多くあるのも嬉しい。そして、浜畑賢吉、中村繁之をはじめとする役者たちの熱演も称えたい。

音楽座ミュージカル『アイ・ラブ・坊っちゃん2000』は、今年1月8日から23日まで新国立劇場で上演された。 右の坊つちゃん役は中村繁之、左の山嵐と正岡子規のの二役を演じたのが佐藤伸行。


漱石と虚子
夏目漱石の浜畑賢吉と
鏡子夫人を演じた今津朋子。


 
写真提供:音楽座ミュージカル