2007年02月号 掲載
吉村昭さんの宇和島
 
牧村健一郎 (朝日新聞記者)

- 宇和島市の「やまこうどん」店内に掛けられた吉村昭の色紙 -
 パソコンが置かれた机周りはプリントアウトされた資料や本で埋まり、目の前の書類棚から紙袋やファイルが束になって今にも雪崩落ちそうで、いつか片付けようと思うがそのいつかがなかなかやってこない。その棚に「彰義隊1」「彰義隊2」と書かれたバインダーが2冊あり、吉村昭さんの小説「彰義隊」についての読者の手紙や、吉村さんが私あてに送ったファクス原稿や便りが閉じこんである。
 「「青い骨」の記事ありがとうございました。すぐに御礼を申し上げたいと思いましたが、失念し、すみません。(彰義隊の)13回目のあらすじ、うまいなと思いました。入間市の読者から飯能戦争の資料をいただきましたが、それを書くと筋が割れてしまいますので、この旨を書き、御返送しました。(後略)」
 吉村さんは2004年10月から翌05年8月まで、朝日新聞に小説「彰義隊」を連載し、その1年後、亡くなられた。私はその担当編集者だった。「青い骨」はその頃再刊されたデビュー作の小説集で、私が新聞に短く紹介した。「あらすじ」とは毎月の初回に掲載する「彰義隊」につける、それまでのあらすじで、担当者が書く。ファクスの文面は、丁重で折り目正しい吉村さんの人柄を彷彿させる。「彰義隊」の原稿はほぼ1週間ごとに、ファクスできちんと送られてきた。それも半月か1カ月さきの分だ。くせのある字体に慣れさえすれば、こんなラクな新聞小説の担当者はない。中上健次は翌日分の原稿を前夜、やっともらえるのが常だった。膨大な資料を数日のうちに揃えるよう要求する女性作家もいた。吉村さんは連載開始時にすでに書きあげており、あとは新聞用に区切りをつけ、微調整して送るだけ、といわれ、おおむねその通りだった。
 連載期間中、東京・吉祥寺のお宅にときどきお邪魔した。原稿はファクス、事務連絡は電話で済むし、作家と編集者のべたべたした関係を好まない吉村さんと、どの程度の距離でお付き合いするか、ずっと気にかけていた。だから、なにかの用事でお目にかかるときは嬉しかった。いつも笑顔で応対してくれたが、ときおり見せる刑事のような鋭い目つきには、ヒヤっとさせられた。  そんな折、取材旅行の話になった。「ぼくは長崎と宇和島が好きでね。長崎には100回以上行った。先日、市長から長崎奉行に任命されてね。宇和島も50回は超えてるかな」と言う。『ふぉん・しーぼるとの娘』や『長英逃亡』の取材でしばしば宇和島に行き、気に入ったようだった。宇和島の小さなうどん屋さんを紹介した随筆「朝のうどん」には宇和島について「新鮮な魚に恵まれた人情豊かな町で、夜はなじみの小料理屋やバーに行って酒を楽しむ」という記述がある。
 たまたま私が宇和島方面に取材に行く前だった。「牧村さん、鯛めしというのを食べてきなさいよ。鯛の刺身を生卵入りのだしで食べるだけなんだけど、これがおいしい」。そして繁華街にあるバーも教えてくれ、「ボトルが入ってあるから、どうぞ飲んで」。
 宇和島で、鯛めしをいただき、そのバーに行ったのは言うまでもない。さすがに吉村さんのボトルには手をつけなかったが。


- 朝のうどん -
 連載の半ばころ、風邪をこじらせたので入院する、との連絡があった。2週間くらいの予定で、原稿も事前に渡すから心配ない、という。見舞いは遠慮する、と病院の名前も教えてくれなかった。吉村さんの流儀なのだろう、と思い、特別なことなしなかった。しばらくして退院され、お宅に伺った時も、様子は以前とさほど変わらず、ほっとした。「いい休養になりましたよ」などという言葉を真に受けていた。夫人である津村節子さんの回想によると、入院は舌癌の放射線治療で、家族以外、病状は極秘だった。鈍い私はまったく気がつかなかった。ただ何かの拍子で、「彰義隊がぼくの最後の長編になると思いますよ」ともらしたのは、妙に記憶に残った。でもそれだけだった。
 宇和島のバーでは、ママさんから、先生にまた来て下さいと言っておいて、と言づてを頼まれ、帰京後、ご自宅の応接間で伝えた。 吉村さんは頬をゆるめて聞いていた。だが、その後、宇和島にはもう行けなかったと思う。
「朝のうどん」の店には、吉村さん筆による「朝の うどん」と書かれた色紙が、今も壁にはってあるという。いつか当地を訪れてそのうどんを食べ、例のバーにもまた立ち寄ってみたい。