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2012年05月号 掲載 
愛媛県立歴史文化博物館 テーマ展「伊予の文人 藩校と教育者」
愛媛県西予市宇和町卯之町


愛媛県立歴史文化博物館
 怒りの日
 ほんとうに久しぶりに愛媛県歴史文化博物館に出かけた。木を切って高速道路から見えるように、白い壁いっぱいに愛媛県歴史文化博物館という字を書いたのを、目にしてはいた。愚かなことをするなあと思っていた。館の方に聞くと、県から来られた前館長が独断であっという間に決めてやってしまわれたということだ。名前を大きく書けば入館者が増えるだろうという発想だろうか。ならば、当初の設計段階で盛り込むべきで足場をわざわざ組み、壁面を看板にして客の目を引くアイデアは、デザイン的にも、ほめられるようなものではなかろう。県民の民度というものを問われかれない、つくづく恥ずかしいやり方であると思う。
 閑話休題。藩校の展示を見に来たのである。スロープを上がった入口には、リカちゃん人形の展覧会の大きな看板が立っていた。エスカレーターを上がると楠が育って、麓の宇和盆地が見えにくくなっている。日建設計の設計であったと思うが、すっきりしていたエントランスはごちゃごちゃした感じになっている。照明は暗い。運営は民間、学芸は県という運営で、開館15年経って150万人の来館者があったという。常設展のみのチケットを買い順路に従って進む。当初とほとんど展示は変っていない。模型が多いのに照明が暗いのも同じだ。所々立ち止って見ながら、目的の藩校の展示に向かって先を急いだ。いつか来た時こわれていた藤原純友の人形は修理されていて、スイッチを押すと元気に、アニメと連動して「おれ様」を連発しながらわかりやすい解説を聞かせてくれたが、平日のせいか、まわりには私一人しかいない。
 地下の文書室という場所で、テーマ展「伊予の文人 藩校と教育者」は開催されていた。
 ホームページの告知文を昌平黌の書き誤りはそのままにして、下に掲げる。「江戸幕府は、幕府直轄の教学機関・昌黌校(「昌平坂学問所」とも称される。)を中心として、大名から領民にいたるまで学問を奨励しました。伊予には、八つの藩(西条・小松・今治・松山・大洲・新谷・宇和島・吉田)と天領がありました。それぞれの藩では、藩士の子弟に対して教育を行うために藩校を設立し、昌黌校出身者など優れた教育者を招きました。教育者は、庶民にも教育の輪を広げました。その結果、江戸時代の就学率は70~86%にものぼり、江戸時代後期の識字率は世界最高水準に達したといわれています。」
 この告知文は大づかみのようで、日本全国と、伊予の地域性、藩校と寺子屋の存在を弁えずにつぎはぎした乱暴な書きようだ。
 兵農分離が曖昧だった江戸のはじめは文より武の時代で文字を読めぬ人が大半の世の中であった。家康が林家を応援し、貴族の家学であった儒教を公開の学問とさせた。江戸に昌平黌が出来、先行するいくつかの藩校が出来た。寛政期に、昌平黌は、昌平坂学問所として幕府直轄の学問所となる。各藩でも饑饉や災害対策、対外危機の切迫、財政の窮迫を打開する藩政改革の中で、身分制度の中に、能力主義をとりこみながら教学を振興し、藩校の数は一気に増加する。武士は日本人のうちのわずかであって、庶民の子弟は寺子屋で読み書きそろばんを習ったり、手習いをしたりした。都市部では八割近くの子供たちが寺子屋に通ったというが、農村や地域によっては4割か5割くらいが平均だったという説が穏当であろうか。
 中に入ってがっかりした。最初の展示は吉田藩。藩校時観堂の現在の写真だけが二枚も飾られている。『吉田藩昔語』(戸田友士)には、「六代村芳侯が儒者森嵩を聘し士分の子弟に漢籍を教授し大いに文教を興されし所で槍術の道場もあった。維新後、文武館を設置せらるるに及び時観堂を始め槍術、剣道の稽古場は廃止となり、その跡は定府の家臣の住宅に改造せらるるようになった」「森嵩は退堂と号し、京都に生まれ江戸に出で、井上四明を師として文章卓絶、才気衆に抽(ぬき)んで、與(とも)に交わる所、佐藤一斎、武元君立の如き皆一時文壇の俊英であった。六代村芳侯が寛政六年時観堂創設せらるるにあたり聘せられて儒官となった」などと見えるが、この解説は具体性に欠け、何をどんな風に教えていたかもわからない。陣屋町のどこにあって、幕末に時観堂がどう変わったかということもわからず、現在の場所も吉田を知らぬ人にはわかるまい。 隣に適塾の出身者の医師についての展示があった。説明がひどい。適塾を敵塾と誤記し、ルビを「てきじゅく」と振ってあるのは困る。城川町のあたりの無医村に赴く医師を慈雨に喩えて激励したという扁額が展示してあり、その医師が、「敵塾」で塾頭をつとめ、村田蔵六の宇和島藩招聘にかかわったという新発見が解説に記されている。怪しい。適塾は二ヶ所とも「敵塾」と書かれている。(この展示は展示そのものが、翌日には取り払われていた)城川町土居には矢野杏仙、古市に三橋陣斎らがいた。医師のいない場所とはどこだろう。大洲の矢野玄道の「勤皇の志士」が「勤皇の志」。「求道軒」に「ぶどうけん」とルビが振ってある。私などは、危うく、ほぉーそう読むのかと思ってしまいそうになる。
 ずっと真面目に見ていたが、無神経な脱字や誤字があまりに多く不愉快になった。
 松山藩校明教館の所に石門心学の塾の展示。石門心学の塾の展示がちょっとおもしろい。しかし、庶民に及んだ展示は全体としては少ない。
 だいぶ前に江戸東京博物館であった「江戸の学び」という展覧会の展示は、ビジュアルで、分かりやすい上に、学ぶ側から見た寺子屋の実態を様々な側面から浮き上がらせていた。たとえば女子の寺子屋はどうであったか、先生はどんな職業身分の人だったか。悪ガキはどんなありさまだったか。教えている内容も具体的に展示して会って、説明も行き届いていた。就学率の高さや、識字率の量的な面で世界最高水準を評価するのではなく、読み書き算盤を教える寺子屋でも、おおらかに、子供の自発性に期待した人格形成教育をめざした教育の質を見せようとした主催者の意図に感銘を受けた。
 比べてもしかたがない。こんな誤字脱字に平気でルビを打っている輩と比較するのも愚かなことだが、なんだか故郷がバカにされているようで、さびしさが込み上げてきた。来館者がいないからではない。
 見ているのが、あほらしくなって、面識のある学芸課長を呼んでもらい、苦言を呈した。
 「敵塾」やその余の目に余る誤字脱字はさすがに、相手も色を失って撤回されたが、「敵塾塾頭」の怪しい新発見の解説の方は、寄託者の資料にあるので間違いはないと思っているとあいまいに自信を示され踏みとどまられた。林という養家の苗字だからあなたは勘違いをされているのではないかという説明である。適塾の初代塾頭などはどうでもいいが、それを説明に書いているのだから誤りか否か根拠を提示して来館者に即答くらいできなくてどうするのかと思った。学芸課長はご意見は伺うが、われわれは、苟も専門家である。浅学の素人が「そこまで」口を出すのはつつしまれたいという口吻であった。
「白鹿洞書院掲示」の書斎(私塾)と書院(私塾)を同じく(私塾)とするのも歴史的におかしい。五常の説明も、私が見ただけでも、何かを引写しただけの説明であることがわかる。引き写すなら、わかりやすく書き直し、出典くらい明示してほしい。すこしむかむかした。その日は予定があったので退散することにしたが、その翌日の午後、ついでがあったので、前々から買ってみようと思っていた愛媛県歴史文化博物館の紀要を求めに再度訪れた。午後3時で売店は終わりとのことだが、書籍は親切にも、売ってくれた。ついでに兵藤賢一の「伊達宗城公伝」も買った。紀要には藤田正学芸課長の「伊達宗紀の海防策」という新しい論文が載っている。
 約20年の昔に長逝された河内八郎氏(当時茨城大学教授)編の『徳川斉昭・伊達宗城往復書簡集』(1993年校倉書房)は年来、繰り返しお世話になる本であった。河内氏は、水戸の烈侯と幕末三賢侯の宗城、そしてその義父宗紀の書簡を十四年かけて、水戸と宇和島の双方で、周辺の文書とともに調査、解読、問題点を闡明して、後学の為に遺された。自らの調査が及ばぬところも腹蔵なく明らかにされている。藤田課長の新しい論文は氏の達成の上に、さらに20年以上の歳月を賭して、伊達家の資料を博捜渉猟し、宗城から宗紀に遡り、江戸幕府の海防策の全容を把握した上で、当時の東アジアの世界史的位置を踏まえ、具体的かつ詳細に明らかにしたものであろう。河内氏の本には高野長英の「蘭書目録」から、「砲台土図」、水戸彰考館に残る宗城の「綿薬法」まで関連の一時史料も翻刻して、おさめられていた。泉下の河内氏に新しい著作は望めないが、河内氏の献身的な労作の上に、新たな発見がどれだけ加えられているかを藤田氏の労作に大いに期待し、楽しみとしたいものだと思っている。
 紀要には、安永純子主任学芸員の「資料紹介 日吉村初代村長井谷正命の『写真帖』について」という論文も掲載されていた。写真も井谷自筆の書き込みも興味深いもので何度も訪れた日吉村の風景と明治、大正の風景を重ね合わせて興味深く目を通した。ただ、翻刻にはひどい誤りが何ヶ所かあった。(正誤表はなく藤田正学芸課長にその二三ヶ所を指摘しておいた。明白な曲解による加字、改竄の場所のみ)
 その後も、愛媛県歴史文化博物館はなかなかホームページの誤字を訂正しない。(※先日、二回にわたって昌平黌の誤字を訂正された)厚顔である。電話をかけたところ、展示の担当者が電話口に出てきた。「あなたはくわしいが、大学の教師かなにかか」という。こちらが面食らって、大学の教師にも怪しいのはいると食い下ったら、「けんか腰」だといなされた。「敵塾塾頭」の新説については、より詳しきを語ろうと思ったから、林家の史料に基づいて書いたいうことで、間違いであったとは絶対に明言しない。新説発見に繋がると思ったとへらへら笑う。林家の史料をどう読み込んだのか、こちらにはわからないから、言いたい放題としか思えない。腹立たしいばかりである。無念ではあるが、体にも障りかねないの で、もう結構と降参した。年を取ると怒りっぽくなってこまる。
 「怒りの嶺に行くことなかれ 友情に老いあらしむるなかれ そしるべからざるをそしるなかれ 山の人をおしつぶすがごとく 怒りは愚かなる者を押しつぶす」
 私のような愚者は、よほど自制しないと、怒りに押しつぶされてしまう。くわばらくわばらである。
 若くして惜しくも亡くなった河内八郎氏は、伊東多三郎の「幕末史の資料について」(『史学雑誌』第61編第7号)を援用し、正確な史料の蒐集調査、読解、その成立の研究、信憑性の判定、他の史料との照合、史料の持つ意味の特殊性と共通性との分析、史料の立証力の強弱と限界の認定等々の仕事の順序を疎かにしない「史料学」の意義の再認識が必要と述べている。河内氏は出来うる限り誠実にその意義を認識して仕事を進められた。私のような市井無頼のものにさえ、河内氏が幕末史の分野に残され仕事には襟を正しくさせるものがある。愛媛県歴史文化博物館藤田正学芸課長もその学恩に浴したはずである。
 歴史博物館の大厦高楼に盤踞し、肩書きに学識を誇る諸姉諸兄が、願わくば河内氏の志を無にしないことを願うばかりである。合掌。

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