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1998年07月号 掲載 
『ワインズバーグ・ オハイオ』
 
シャーウッド・アンダソン 著 小島 信夫・浜本 武雄訳
 (講談社文芸文庫(定価950円+税) ) 


 かつて、一世を風靡した文学全集の類はすっかり消滅してしまったが、それをオープンな刊行スタイルと新しい形態で現代に相応しい文学全集として甦らせつつあるのが、「講談社文芸文庫」である。そしてそこから、永らく絶版で読むことのできなかったシャーウッド・アンダソンの名作『ワインズバーグ・オハイオ』が新しい生命を得て誕生した。
 オハイオ州のワインズバーグという架空の町を舞台に、半ば独立した二十五の物語によって構成された本書は、新しい文明の波に押されてさびれてゆく田舎町の変遷と、そこに生きる人々の喜びと哀しみを描く、典型的な「都市小説(シティ・ロマン)」である。  そして、本書のもうひとつの特徴は、各短 篇の大部分の物語に登場するジョージ・ウィラードという少年の、性的な目覚めから、町を出て行くまでの成長の跡をたどる、典型的な「教養小説(ビュルドゥングス・ロマン)」でもあることだ。
 作者のシャーウッド・アンダソン(一八七六~一九四二)も、ウィラード少年と同じように、オハイオ州の小さな町に生まれ、貧困の中に育った。そのせいか、彼が描き出す登場人物はどれも、孤独で、時代の流れについていけない、淋しい翳を持った男や女である。そして、そんな人間達を見つめる作者の視線は実に細やかで温かく、一見悲劇的な状況を扱いながら、そこには生に対する根源的な肯定感があふれている。
「彼は些細なことを想い浮かべた――朝、故郷の町の大通りを、板を載せた手押し車を押してゆくターク・スモーレットの姿、以前ひと晩父のホテルに泊まったガウン姿の美しかった背の高い女のこと、ワインズバーグの街灯の灯火を点けてまわる役目のバッチ・フィーラーが、夏の夕方、手に松明を持って、街を急ぎ足に行く姿、ワインズバーグ郵便局の窓口に立って、封筒に切手をはっている、ヘレン・ホワイトの姿」
 こんな、どこにもある、何てことのない、ありふれた、ホンの些細な人々の姿が、何と美しく、かけがえのないものに見えてこないだろうか。これこそが文学の、詩の力なのだ。
 いつまでも生きつづけてほしい傑作である。

井上 明久(作家)

 
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