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読みたい本:
2003年03月号 掲載 
『満韓ところどころ』(夏目漱石著・ちくま文庫版漱石全集ほか)
『満洲鉄道まぼろし旅行』(川村湊著・文春文庫)
 
牧村健一郎 (朝日新聞学芸部)

早稲田南町書斎の漱石
 夏目漱石は明治四十二年(一九〇九)九月から十月にかけ、学生時代の友人で満鉄総裁になった中村是公の招きで、満洲、朝鮮を旅行した。『満韓ところどころ』はその旅行記で、同年十月二十一日から十二月三十日にかけ、東京朝日新聞に連載された。実際の旅行は、神戸、大連、旅順、奉天、長春、ハルビンさらに朝鮮半島と続くが、旅行記は全行程の半分にも満たない撫順炭鉱で唐突に終わっている。
 時代は日露戦争が日本の勝利に終わって四年後、朝鮮半島、遼東半島方面で、着々と日本帝国が影響力を増していた時期だ。
 一方、漱石自身としては、朝日新聞社に入社し本格的な作家活動を始めて二年、「三四郎」を前年に、「それから」をこの年の春に連載、作家として脂がのり始めた時期であった。ただ、持病の胃腸病に旅行中も悩み続け、『ところどころ』にも、体調不良でホテルで静養、という記述がしばしば出てくる。なお、その翌年の夏がいわゆる「修善寺大患」で、あやうく死にかける。満韓旅行も遠因だったかもしれない。
 有名作家が自国の支配下に入りつつある外国を旅行し、その地理や風俗を新聞に連載する、というとその連載はある種の政治的、社会的な意図を感じざるをえない。だがこの作品で漱石はそうした「社会的使命」をむしろ避けているようだ。のっけから「南満鐵道會社って一体何をするんだい」と宣言。友に誘われたから行く、とあくまで私的な旅行を強調する。何人もの旧友にかの地で遭遇し、ユーモアに満ちた旧友交歓記ともいえる。
 とはいえ紀行文である限り、現地ルポも忘れてはいない。まだ生々しさが残る旅順の戦跡、豆油の精製工場、広がる黍畑、特にアカシアの並木が美しい大連の瑠璃色の夜空を描写するシーンは印象的だ。当時のかの地の記録として貴重なだけでなく、読み物として今読んでも面白いと思う。ただ、あの漱石ですら、露助とかチャンという表現を使っているのにはちょっと驚いた。


早稲田南町書斎の漱石
 『満韓ところどころ』から約三十年後の昭和十二年(一九三七)、ふたりの小学生サツキくんとヤヨイちゃんが、建国五年の満洲帝国を旅行した記録が『満洲鉄道まぼろし旅行』だ。もっともこれは架空旅行記で、当時の旅行者の日記、パンフレット、ホテルのメニューなどをもとに、文芸評論家川村湊が構成した観光案内記。写真や図版が満載で、読みやすく、臨場感がある。
 神戸を出航、大連につき、ヤマトホテルに泊まるまでは漱石と同じ。以後、サツキくんたちは最新鋭特急「あじあ」号に乗って満洲各地を旅行する。有名な温泉地や首都新京、さらに奥地の満洲里まで足を延ばし、この数年後、精鋭日本陸軍がソ連機動部隊に完敗するノモンハンも訪ねる仕掛けになっている。
 半島の舞姫・崔承喜のインタビューが愉快だ。朝鮮半島出身の舞踏家で帝劇を何日も満員にしたスーパースターの彼女にヤマトホテルで会う。女学生がサインほしさに旅館の部屋に無断で入ってくるのは困る、などという話をひきだしている。このインタビューは当時の「旅行満洲」という雑誌の引用だ。なお崔は戦後、北朝鮮に行き、その後の消息は不明だったが、実は一九六九年に死去していた、という事実がこの二月、新聞各紙に報じられた。
 観光案内や記録のほか、当時の事情や歴史を解説するコラムも随時、挿入されている。満洲の青年運動のリーダーのひとりで歯医者の小沢開作は、生まれた息子に、板垣征四郎、石原莞爾から一字ずつもらって征爾と名付けた。後の指揮者小沢征爾である、というようなエピソードなどだ。
 これら旅行記に触発されて満洲をもっと知りたければ、山室信一著『キメラ』(中公新書)がおすすめ。簡便な新書本だが、満州帝国の実情をみごとに分析、概観している。
 
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