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1999年09月号 掲載 
『美しい夏の行方』
 
辻邦生 著
 (集英社文庫 本体 571円+税) 

 ちょうど十年前の一九八九年の七月、単行本『美しい夏の行方イタリア、シチリアの旅』がB5判のハードカヴァーで出版された。そして、この七月十八日、同書が文庫版に形を変えて発行された。それからわずか十日後、著者の辻邦生さんが七月二十九日に軽井沢の地で急逝された。この本の書名通りに、美しい夏を求めて遠く旅立たれたに違いない。辻さんは夏がお好きであった。とりわけ、生きることがそのまま歓ぴへと結ぴついているイタリァの夏が。
 本書には、二つの旅による二つの紀行文が収録されている。一つは、一九八七年の夏、ローマから始まり、スポレート、アッシジ、ペルージア、アレツツォ、シエナ、サン・ジミニャーノ、そしてフイレンツェまでの、中部イタリアの旅を記した「美しい夏の行方中部イタリア旅の断章から」。もう一つは、翌一九八八年の夏、パレルモから始まり、モンレアレ、エリチェ、セジェスタ、セリヌンテ、アグリジェント、シラクサ、ノート等を経てタオルミナに至る、シチリアの旅を記した「海に向かって、夏シチリアの旅から」。いずれも、その年の「マリ・クレール」十月号に掲載された。
 辻さんの作品は、どれも皆、美を媒介にしてこの世に在ることの強い肯定感に包まれているが、中でもとりわけこの本は全篇の隅々までが“生きることの歓び”で満たされている。それは「イタリアが好きだ、という前に、イタリアにいると、幸福のあまり、いても立ってもいられないような活力を感じるのだ」という気持ちが、常に辻さんの心と身体を支配しているからだ。そして、その想いは次のような文章に集約される。「イタリアにきて、ぽくたちはあらためてぼくたちが地上に生きているんだという事実に思い当たる。地上には、青い空があり、香わしい微風が吹き、花々が柔らかく揺れ、雲がゆっくり草原の上を渡っているのだという事実に、何か息を呑まれるような思いで直面する。そして森にゆけば小鳥たちが終日囀り、蜂蜜の香りが苔の湿った岩の向うから流れてくるのだ。そうしたものが素敵な贈物のようにぼくらの眼の前に並んでいるそれがイタリアだ。そういうものが素敵な贈物だと感じさせる色濃い陶酔感が空気のなかに漂っているのである。」
フィレンツェの花の聖母寺(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)
藪野 健画
 イタリアが辻さんにとって素敵な贈物であったように、この本はぼくたちにとって素敵な贈物である。この本を手に取って、どのぺージを開いてもいい、そこに現れる文章を読んでみてほしい。必ずそこには何か貴重なものが見出されるに違いない。そして、その何かを通して地上に生きて在ることの幸福感を味わうことになるだろう。
 最後に甚だ個人的なことだが、この二つの旅にぼくは編集者として辻さんに同行した。ぼくにとっても、この二つの美しい夏は永遠に忘れ難い記憶として刻印されている。辻さんの美しい思い出とともに……。

井上 明久(作家)

 
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