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2000年07月号 掲載 
『言葉の箱 小説を書くということ』
 
辻 邦生 著
 (本体2,500円(税込2,625円) 集英社) 

パリ、パンテオンのドームの回廊からカルチェ・ラタンが一望できる。辻邦生さんのアパルマンはデカルト 街にあった。藪野 健画
 昨年の七月二十九日、辻邦生さんが急逝なされてから、早くも一年が経とうとしている。時間はアッという間に過ぎていく。しかし、さんを喪ったという衝撃は少しも通り過ぎていかない。その亡くなられ方があまりにも突然であったため、まだ信じかねているというのが本心である。
 没後刊行の三冊目に当たる本書は、創作学校で三回にわたって行われた講演集である。テーマは、サブタイトルの示す通り、小説を書くということ、である。
 辻さんは講演の名手だった。品格とユーモアあふれた人柄がそのまま滲み出た話しっぷりは、聴く者の耳と心をしっかりと捕らえて離さないものだった。辻さんはまた朗読の名手だった。講演の中で参考として読みあげる文学作品の一節は--それがディケンズであれ、プルーストであれ、夏目漱石であれ、山本周五郎であれ--辻さんの声を通った瞬間、実にいきいきと、そして鮮やかに、その最も本質的で美しい部分を露わにした。無論、それは職業的に訓練をした朗読の上手(うま)さとは別種のものだった。創造行為の根幹を探求しつくした作家のみが持つ明晰さと普遍性の成せる業(わざ)なのである。
 辻さんの講演には一つの特徴があった。それは、何回か立ち合わせていただいた学習院での授業風景においても共通していたことなのだか、与えられた時間のちょうど半分あたりで、「それではここで五分ほど休憩します。背のびをするなり、体を動かすなり、あるいは煙草をお吸いになるかたは吸ってください」と言って、必ず一度、中休みをとる。弛緩しかけている聴衆の緊張をもう一度高める効果とともに、話すべき内容のどのあたりまできたかを確認し、残された時間の中での再調整を計るためでもあった。そのせいで、辻さんの講演は尻切れトンボに終わるようなことは決してなく、その小説作品と同じように、実に明確な起承転結の構成を持っていた。  本書は、これから小説を書きたいと思っている若い人々に向けて、長い体験と豊かな実績の中で辻さんがどうしてもこれだけは言っておきたいと願った事柄を、なるべく簡便にわかりやすく伝えようとしたものである。従って、随所に宝石のような言葉がちりばめられている。以下、それらをアトランダムに取り出してみれば--
 「常にドラマティックにものをつかまえるという訓練をしてください。電車に乗ったら、ぼんやり吊り広告なんか見ずに、前に座っている人間を見てほしいと思います。その人間のドラマを常に見る。(略)たとえば、建物ひとつ、道の小石一つ見ても、ドラマとして見なければいけないと思います。常にドラマには二つの力がある。道の小石を小学生がポンとけって石が転がったというのもドラマです。そのひとつの石が止りたいという意志を持っていて、けるという別の力が働けば、そこにひとつのドラマが当然できます。」  「岩を積み上げてお城をつくっていくように、言葉でひとつひとつものをつくっていく。言葉の積み上がったものが存在なんだと思えるようになると、実にすばらしい力強い作品が生まれてくるわけです。」


 「ひとたび、ある状況のなかで欲望が生まれると、その欲望を抑え込む反対の力が必ず出てきて、そこに葛藤が生まれ、その葛藤こそが出来事なんですね。そして、それは何らかのかたちで結末にたどり着く。」
 「文章を書くというのは、ワープロを打っても同じですけれども、自分の体のなかからリズムになって、文章のかたちで出てくるというふうにしないといけない。そのためには絶えず書く。そして、書いたことに絶望したり、おれは駄目だと、そんななまやさしい、甘っちょろい考えは絶対起こしては行けない。たった一回きりの人生をひたすら生きている。これは書く喜びで生きているのだから、だれにも文句は言わせない。だれかにコテンパンにやられたって、全然平気。書く喜びがあれば耐えられる。」

井上 明久(作家)

 
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