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2000年12月号 掲載 
『つれづれつらつら』
――暮らしの散歩道 
赤瀬川 隼(あかせがわしゅん) 著
 (興陽館新書/定価 本体690円+税) 


 もう六、七年前のことになるが、本書の著者である赤瀬川隼さんとは、武蔵野美術大学のある授業を共同で担当していた経験を持っている。「表現論」と題されたその授業は、当時武蔵美の教授で画家の藪野健さんを中心に、作家の赤瀬川さん、建築家の板屋リョクさん、そして、当時「マリ・クレール」編集長だった僕の四人が講師を務めるというもので、僕を除けば、豪華で贅沢な顔ぶれの講師陣であった。映画の一部を観ながらそこに現われた映像的表現、そしてその背後に秘められた表現者の意図といったものを探っていくというのが授業の中身で、文学、絵画、建築、雑誌編集というそれぞれ異なる専門分野からの意見が活発に飛び交った。
 とりわけ赤瀬川さんは、淡々飄々たる語り口の中から、実に幅広く、そして何とも蘊蓄ある言葉を紡ぎ出し、隣りで聴いているだけで映画の面白さ、楽しさを堪能できるような思いを何度も感じたものである。つまり、赤瀬川さんの映画好きは筋金入りであり、何も小難しい単語などは使わずともきちんとその作品の本質と魅力を相手に伝えられるほどに、とことん映画を味わい尽しているということなのである。


「暮らしの散歩道」というサブタイトルを持つ本書は、ここ数年に書かれた赤瀬川さんの最新エッセイ27篇が収録されているが、その中には無論、映画の話もタップリとある。そして、赤瀬川さんお得意の野球の話も負けずにタップリと。これは本文中にある御本人の言葉だが、「あなたの少年時代の文化で、あなたに最も影響を与え、その影響が成人後も続いているベスト3を挙げなさい」という自問自答に、「答えは、野球、映画、音楽の三つだ」と言っている。
 そしてそれだけならまだしも、ここのところが本当に素晴らしいことなのだが、別のエッセイの中に次の文章がある。「あれから五十年が経ってふと気がついてみると、友人の大半が立派な正業を成し終えてリタイアするなり悠々自適するなかで、僕だけが、ともに育った文化の土壌の野球と映画に強くこだわり続けることになってしまったようだ。/いつのまにか僕は野球小説家のレッテルを貼られるようになり、加えて映画のコラムニストとしての仕事も続いている」
 そうなのだ。自分という人間を養い、育てあげた文化の土壌というものを、青年になっても、中年になっても、そして老年になっても大切に持ち続けるのはなかなかに難しいことであり、愚かしくも見えたりするものだが、しかしそうであるが故に貴重なことであり、この上なく幸せなことでもあるのだ。僕らが赤瀬川隼の文章を読んだ時に感じる爽快感や高揚感は、筆者である赤瀬川さんのそうした生き方そのものから生じているものなのである。
 だから、赤瀬川さんの目は今もなお、ある意味であの頃の少年の目のままなのだ。世間智という利害性で濁った大人の目と違い、少年の目は本質そのものに迫る鋭い批判力を持っている。その力が最も強く発揮されるのは、例えば最も愛している野球についてだ。野球というゲームが本来持っていた青空や曇天や雨や風といった自然の条件をシャットアウトした、人工的で機能一点張りの現在の日本プロ野球界の在り方を通して、人はなぜもっと直接的な興奮や集中や感動を求めようとしないのかという思い。


藪野 健画
 無論それは野球にとどまらず、「普通を求めることが今の世の中ではそれ自体、普通ではなくなっている」という現状に対する疑問にもつながっていく。そして、この「普通」と題されたエッセイは次のように結ばれている。「だから一つに絞るとすれば『普通で正常な言語感覚』を残したい」。その通りだと思う。人間を人間たらしめている最も根本的な要因は、ことば、なのだから。27篇のエッセイの中のひとつに、「『死』とはことばと訣別する瞬間だ」というのがある通りに。
井上 明久(作家)

 
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