過去の連載記事
同じ年の連載記事
読みたい本:
1998年08月号 掲載(2011年01月 加筆) 
『戦艦大和ノ最期』
 
吉田 満 著
 (講談社文芸文庫(定価九四〇円+税) ) 


 この本を私は最近まで読んだことがなかった。戦争の苦労や悲惨を聴いたことはあるが、私は、実際には戦争を知らない世代の人間である。文語体しかも、カタカナで、重く凄惨な戦争体験が綴られていると思われるこの本を手に取る気には、なかなかなれなかった。さらに、世間でかなり評判をとっているらしいのもあまのじゃくの私には敬遠する理由になった。本屋で文庫本を漁っていて、たまたま講談社文芸文庫版を手に取った。開くページ、開くページ、切りつめられた過不足のない文章が眼を射てくる。巻末に古山高麗雄の作家案内がついていた。古山は、自分のことをいやいや戦場に運ばれたまま生還した下級兵士といい、東大法科を繰り上げ卒業して幹部候補生の試験に合格し、士官としてすすんで戦場にたった吉田満との立場や考え方の違いを指摘した上で「私は吉田さんの文章に、プロ、アマを問わず、文章を書く人にありがちな、見てくれがまるでないことを畏敬している。文は人なり、か。文章に野卑なものがない、ということは、人にもそれがないからであろう。」と書いていた。


山道を越えると海が見えた。

須崎市久通の小学校跡

押岡の貴船神社
吉田少尉(当時)は隊長として部下80名とともに、久通から須崎側に一山越えた押岡の民家に分宿していた。

押岡川の渡し場跡。須崎市押岡の大峰橋付近
復員する吉田少尉を、約二十名の女子青年団員全員が久通から峠を越え、当時は橋がなかった押岡川の渡し場まで見送った。代表の女子の一人が櫓を漕ぎ、一人が日傘をさして吉田と舟に乗った。
吉田は全員が歌う「別れ出船」の歌声が川面を追いかけてきたと書いている。渡しがあったのは今の大峰(おおぼう)橋の辺りという。

現在の久通の浜辺の風景
当時は砂浜で、防波堤の場所に松が群生していたという。吉田は代用教員をしていたときの様子を次のように記している。
「残暑の土佐の灼けるような太陽が高く上がらないうちに始業の鐘を三つ鳴らす。すると三年生以下の子供たちが集まってくる。十二、三人の生徒は授業のあいだ、ひとりも先生の眼から視線を外そうとするものがなかった。体操の時間は駈け足で海まで引率してゆく。浜辺に立つと、見はるかす限りの砂浜と白波の線を厚味のある松林の群落が分断していた。
 潮の香りが慕わしくて、私はしばしば野天授業の時間を延長した。海を背にして波打ちぎわにあぐらをかく。子供たちも列を整えてあぐらをかく。彼らの眼に入るものは、そと海につらなる一本の水平線と私のほかにはなかった。」(文藝春秋1975年3月号「伝説の中のひと」より)

久通村
当時は海からせりあがる右手の急峻な山裾の中を通る山道が須崎への道だった。
電探基地建設の時は、この道を峠の頂上まで登って、さらに右手の法院山(標高280m)の頂上まで、毎日村人や子供たちが何度も往復して浜辺から砂利や砂を運んだという
 実際に読んで衝撃を受けた。大和轟沈の凄惨さもあるが極限状況で、「事実をあるがままに伝えようとする」著者の姿勢に打たれたからだと思う。しかし、事実をあるがままにということは、実際には不可能なことである。表現されたものは、表現行為という「フィクション」で事実を伝えるということになる。
 生き残ってこの叙事詩を書き上げた吉田は、事実を歪めねつ造しているという非難を受けることがあったという。吉田は褒貶など一顧だにせずにこれを書いたと思う。多くの死者たちとともに、戦前から戦後へ、自分の全てをかけた生を問い直すことしか念頭にはなかったであろう。
吉田は生還後、高知県須崎湾突端の久通村で対艦船電探基地の建設を命じられて赴任する。敗戦を迎えた後も、乞われて村にとどまり分教場の代用教員をつとめていた。鶴見俊輔が書いている。
「終戦の報道を海岸の基地できいた時、吉田満の最初の反応は、すぐに両親の下にかえって平和な市民生活にもどることでなく、この基地そのものに司令とともにとどまることであった。徹底抗戦でもなく、敗戦の時点ー戦争と平和の境界の一点にとどまって、敗戦の意味をなっとくのゆくまで考えることだった。ここに吉田満によって十五年戦争時代を通しての最もすぐれた叙事詩が書かれた根拠がある。この村の村長夫妻と親しみ、村の小学校の仕事を助け、村の子供たちと遊ぶ中で、敗北のイメージは明らかに定着した。このイメージをもって米国占領軍の検閲方針に対してもゆずらず、戦後日本の戦争時代抹殺の空気に対してもゆずらず、彼は戦争の唯中における軍国主義・超国家主義の転向という主題を抱き続けた。……」(『共同研究 転向』第2章第4節「軍人の転向」鶴見俊輔)。
村を去った吉田はかっての海軍の秩序に代り、日本銀行につとめ、折り目正しく生きた。そして、会社員としてまっとうに生きるだけでは、人間共通の正義の問題は解けないという分裂した意識を抱き続けることで、戦争の記録に戦後の日本の会社員生活の問題状況をもあざやかに描いてみせたと鶴見は言う。日本が敗戦によって、軍国主義から平和主義になったという保証はない。軍人たちが戦前に忠誠を問われたことを戦後は会社員や文官が問われているだけだということである。
先日、吉田の戦前と戦後の境界となった久通村を訪ねてみた。迷ったかと思う、細くくねくねまがった山道を越えると、眼下に太平洋が洗う磯と小さな村が見えた。吉田が子供たちを教えた分教場は廃校になり、漁協の事務所とコミュニティセンターを兼ねた建物になっていた。

(編集人)

 
Copyright (C) A.I.&T.N. All Rights Reserved.
1996-2008