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2000年06月号 掲載 
『漱石の夏やすみ 房総紀行 木屑録(ぼくせつろく)』
 
 高島 俊男著(朔北社 本体2,000円+税)


 明治二十二年、漱石がまだ第一高等中学校の生徒であった二十二歳の時、夏休みの二十日間あまりを、友人四人とともに房総の地に出かけた。その折の見聞を漱石は漢文による紀行文として書き上げた。それが『木屑録(もくせつろく)』である。木屑とはつまらないもの、役に立たないものと自ら謙遜して言った言葉だが、ぼくせつの音(おん)からは「朴拙」という意味にも通じているように思える。
 ところで、この『木屑録』は一個の公の著作として書かれたものではなく、親友であった正岡子規に読ませるために書いた一種の手紙であった。ただし、手紙と言ってもずいぶんな長さである。実際、漱石は日常でも結構長い手紙をしばしば書いた。また、作品の中でも、手紙という形式を重要な部分で好んで用いた。最も有名なところでは、『こゝろ』の第三部に当たる「下 先生と遺書」と『行人』の最後に置かれた「Hさんの手紙」である。とりわけ前者は、現実ではちょっと考えられないくらいの異様な長さの手紙によって、作品全体の核心部分が描かれていて、手紙ならではの直截的な語りかけが圧倒的な感銘を生み出している。

漱石が子規に送った句稿。子規妄評とある。
 漱石が『木屑録』という子規への手紙を書くきっかけは、その数ヵ月前、子規から『七草(ななくさ)集』という文集を読まされたことにある。この中で子規は、漢文、詩、短歌、発句、謡曲、和漢混淆文、雅文という異なる七つの文体を使って七篇の文集を作った(それにしても、明治のインテリというのは二十歳(はたち)やそこいらでこういうことのできる教養があったのだから、恐れ入るやら、我が身が情けないやら)。これを読んだ漱石がとりあえず漢文と詩で批評を書き、その最後に「辱知 漱石妄批」と署した。これが夏目金之助が漱石という号を用いた最初とされる。そして、それだけでは物足らず、夏休みの旅を基に一篇の漢文紀行文を作り、それを子規に示したのである。互いに敬愛し、互いに切磋する若者同士の、覇気と稚気とがぶつかり合う様子がほほえましい。
 ただ、この『木屑録』は後世の無教養な輩にとっては甚だ厄介な代物で、全文是れ漢字ばかりなのでトンと理解できない。そこで便利な読み下し文のお世話になるのだが、これがまた良いような悪いような。というのも、これだと何でもかんでもが「国破レテ山河アリ」式の荘重で幽美な雰囲気になってしまうので、たとえば『木屑録』のようなタイプの内容には似合わないのではないかとかねがね思っていた。そこに、本についてのエッセイでお馴染みの中国文学者の高島俊男の手による軽妙洒脱な訳文が登場した。その冒頭の一節を見れば――
 「我輩ガキの時分より、唐宋二朝の傑作名篇、よみならつたる数千言、文章つくるをもつともこのんだ。精魂かたむけねりにねり、十日もかけたる苦心の作あり。時にまた、心にうかびし名文句、そのままほれぼれ瀟洒のできばえ。むかしの大家もおそるるにたりんや、お茶の子さいさいあさめしまへ、これはいつちよう文章で、身を立てるべしと心にきめた。」


 まるで『坊っちゃん』だ。この痛快さ。この奔放さ。これまで遠く離れていた『木屑録』が一気に身近なものへと変貌した。有難いことだ。本書は、『木屑録』の訳文を巻頭に据え、その後に、執筆のきっかけとなった漱石と子規の交友と文章について触れ、さらに大きく発展して、日本人と「漢文」についての歴史と問題点を鋭く大胆に指摘する。漢文をもっぱら日本式訓読でしか習ってこなかった身にとっては甚だ耳の痛い話で、ちょっぴり絶望的な気分にもなってしまうが、大きく言えばこれが明治維新以降の日本というものの辿ってきた道なのだ。そういう時代風潮の中で漢文において天才的能力を持っていた漱石を「遅れてきた青年」として捉えたイメージが、読後、深く印象的に残る。

井上 明久(作家)

 
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