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読みたい本:
1999年05月号 掲載 
『マンハッタン夜想曲』
 
コリン・ハリスン 著
 (講談社文庫 定価 本体1,095円+税) 
 待望久しいコリン・ハリスンの新訳が出た。一気に読んだ。素晴らしい出来だった。僕にとってハリスンは三人目のコリンである。最初のコリンは、『アウトサイダー』の著書コリン・ウィルソンであり、 もう一人のコリンは、『ウッドストック行き最終バス』を第一作とするモース主任警部シリーズの生みの親コリン・デクスターである。どちらのコリンも僕のささやかな読書生活における輝ける大スターである。ウィルソンからは意志が人間を造るということを、デクスターからは知的快楽がビールを飲むように悦ばしいということを学んだ。そして、三人目のコリンとして数年前にハリスンが加わった。とはいっても、このコリンは今度の『マンハッタン夜想曲』でやっと二冊目の翻訳が出ているだけなのである。もっともっと読みたいのだが、そうもいかない。というのも、現在までにまだ三作しか書いていないのだから。
 ここでザッとハリスンのプロフィールを覗いてみよう。生年は不明だが、フィラデルフィアで生まれ、今は作家である妻のキャスリンとともにニューヨークに住み、雑誌『ハーパーズ』の現役編集者としての仕事のかたわら創作の執筆に励んでいる。処女作は一九九〇年に発表、その翻訳が一九九五年に『裁かれた検察官』(早川文庫)として出た。これが日本でのコリン・ハリスンのお披露目であった。その後、一作書き(これは未訳)、一九九六年に書いた第三作が本書である。そしてそれ以来、まだ新作の発表はないとのこと。
 『裁かれた検察官』ては厄介な殺人事件をかかえた検察官、『マンハッタン夜想曲』ではこれまた複雑で面倒な依頼を受けたために殺人事件へと巻き込まれていく新聞のコラムニストを主人公に据えていて、表面的にはスタンダードのミステリ小説の体裁ですすんでいく。しかしそこから現れてくる世界は、並みのミステリとは大いに異なる、深くて、暗くて、広くて、切なくて、豊かな意味を持っている。一読、決してそこでは終わらず、長く長く心に残る。これぞ文学の味わいである。


 本書はこんな人に薦めてみたい。ニューヨークの光と影にぞっこんまいっている人に。もう決して若くはなく、かといって老いこむにはまだまだ欲望を捨て切れないでいる人に。妻と子供と家庭を愛するとはどういうことかを知りたい人に。それでいて、なにか機会があればちょっと道をはずしてもみたいと思っている人に。会社や仕事関係で何でこんな理不尽な目に合わなければいけないのだと悩んでいる人に。とことんいい女というものに出会ってみたいと思っている人に。
 しかし、そうお気軽に読んではいけない。六六〇ページに及ぶ分厚い一冊の中には、ちゃんと毒が待ち受けているのだから。

井上 明久(作家)

 
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