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1998年10月号 掲載 
『風雅集』
 
辻邦生 著
 (世界文化社 定価2,100円(税込) ) 


 『背教者ユリアヌス』や『春の戴冠』など、西欧の歴史に材を採った長編小説を数多く執筆している辻邦生は、その一方で、日本を舞台にした数多くの歴史小説をも発表している。『安土往還記』、『嵯峨野明月記』、『天草の雅歌』、『西行花伝』等がそうである。これらの小説を書かせる動機の素となった、日本の古典、美術、文学への深い関心を綴ったエッセイを四十二篇収録したのが、『風雅集』である。
 本書に登場する固有名詞を目につくままに連ねてみれば――清少納言、和泉式部、菅原孝標の女といった平安時代の女流作家たち、西行、芭蕉、蕪村とつながる歌の道、光悦、宗達、光琳、抱一、大雅などの美の世界、そして漱石から始まる近代文学と、埴谷雄高、大岡昇平、武田泰淳、福永武彦、井上靖、北杜夫など同時代の作家たち。無論、これだけにとどまらず、本書の内容は、時代、ジャンル、個性、すべてにわたって実に幅広く、豊かで、濃密である。 辻邦生は本書の「あとがき」にこう書いている。「ヨーロッパの旅はどんなときにも固い構造的な風景に象られていた。その冷たさと鮮明さが異国の魅力だが、日本の風景にかくされた優雅さ、静穏感、柔らかさは、多彩な季節の描く生の喜びそのものだ」と。
 日本の詩歌、美術、文学が、いかにこの日本の風土性とわかち難い形で存在しているかを、これらのエッセイの一篇一篇は、深い魅惑と酩酊感をもって語りかけてくれる。そして、それを知ることによって、この移ろいやすい現象と時間の流れの中に、滅びることなく脈々生きつづけている美的なる世界が在るの巨大な詩集であると考える辻邦生は、そのことに気づかされるだろう。「この世」は一冊「詩」をより深く、より豊かに味わうためには、何よりも先ずこの日本の美に目を注ぐことが必要なのだと静かに、けれど断乎と訴えている。

井上 明久(作家)

 
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