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2005年12月号 掲載
第 83 回 変わらない奈良
近鉄奈良駅前 和菓子「湖月」 
 
 

湖月 近鉄奈良駅前 
 秋の終わりに、奈良を訪れた。元興寺の境内が中世から近世にかけて宅地化した奈良町を歩き、最近整備が進められている町並みや元興寺の極楽坊を見た。
 夕方近くになって、東大寺に行き、二月堂に上がった。小林秀雄にたしか「秋」という随筆がある。あやふやな記憶で書くと、よく晴れた秋の一日、二月堂を訪れた小林は景色を眺めているうちに、ふと二十年の昔に奈良に逗留していた若き日のことを思い出す。小林はその頃、毎日のように東大寺の二月堂に来て、うす暗く、夏は涼しい茶店で、般若湯を一本と、ひどく塩辛いがんもどきの煮たのを注文して、脂と汗で煮しめたような畳の上にひっくり返って、友人から渡されたプルーストの『失われし時を求めて』を読んでいた。小林は昔の自分とプルーストについてあれこれと思いをめぐらせながら、二月堂を下り、大仏殿の裏道から正倉院横の鏡池を通り、転害門を抜ける。一条大路に出て、一本道を町が尽きるまで歩き、海龍王寺の森が見えるところまでたどりつく。短い随筆だが、深い味わいがある。奈良で無為な時間を長く重ねたものにしか見えない奈良が実によく描かれていたことだけは、はっきりと覚えている。


ワラビ餅
ふと思いついて、二月堂から小林の歩いた海龍王寺にいたる道をたどってみた。ところが、転害門を出てまっすぐ平城京跡へと続くその旧一条大路が、途中の不退寺口のすぐ先で新しい大きな道路に寸断され、歩道橋が渡されていた。私が今から三十年以上の昔、学生時代に歩いた時は、小林の頃に比べれば、もちろん宅地化が進んでいたが、こんな立派な道路はなかった。スケールが車向きになったせいで、距離は昔と変わらぬはずなのに、ずいぶん遠いものに感じ、ひどく疲れを感じたのである。ほどなく、たどり着いた海龍王寺は昔、荒れ果てていた土塀なども、やや整えられていて、入口の拝観受付には美しい娘さんがいた。境内の西金堂は修理され、奈良国立博物館に預けてあった精細な天平時代の五重の小塔が戻っていた。
 時の移ろいに伴う当然の景観の変化に多少の幻滅を味わった私は、不退寺口で市バスをつかまえ、近鉄奈良駅前に戻った。関西空港に行くバスの時刻に余裕があったので、小さな行基菩薩像のある噴水の前の古い和菓子舗「湖月」に入った。この間口の狭い店は何年か前にビルに変わったが、店の佇まいと雰囲気は少しも変わっていない。湖月の看板は松山人、河東碧梧桐の書である。特徴のある字だからすぐそれと知れる。私は、店の奥の茶店に入り、わらび餅を食べて、番茶をすすった。この店の名物は南都七大寺最中と「みかさ」という大きなどら焼きである。それもおいしいが、茶店で出す、おしるこやワラビ餅なども昔と少しも変わらぬ、嫌みのない味だった。店の壁には会津八一の歌が季節ごとに掛けられている。ある年の秋の日に訪れた時は「み神楽の舞のいとまをたちいでて紅葉に遊ぶ若宮のこら」というのであった。その日は「おおらかに両手の指を開かせて大き仏は天垂らしたり」(実際はひらがなで書いてある)という大仏様を詠んだ歌がかけてあった。  「湖月」でお茶を飲んでいるうちにだんだん屈託が薄れ、やはり奈良はいいという気持ちが高じてきたのはわれながら他愛のないことであった。

海龍王寺の小塔(天平時代)

奈良町の路地

 
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