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1999年05月号 掲載

 
ロザリオ(ブラジルマラニョン州) 
関 洋人 (大洲市在住)

ピヨンたちに指示する友人

友人の家にて
 ピックアップトラックの荷台に乗り、命綱のロープを握りしめてロザリオの街を一まわりした我々は、日が沈みかける時刻に友人のファゼンダ(農園)に到着した。道路から少し下ったところに門があった。友人が、呼ぶと、門の脇の粗末な家に家族で住んでいる門番のピヨン(従業員・雇われ農夫・牧童ぐらいの意味)が出てきて、錆びた鉄の格子戸をあけてくれる。
 彼の住居兼事務所はその門から百メートルほど先にあった。平屋で建坪は百坪ほどもあるだろうか。縦に長い長方形で、オレンジ色の瓦を葺いた白っぽい色をした建物だ。トラックから荷物をおろして中に入った。入るとすぐの部屋はかなり広かった。一人暮らしの友人は、生活のほとんどをそこですましているという。食事をしたり、客と話したりする大きなテーブルが部屋の中央に置かれ、脇には本箱の置かれた事務所らしい空間もあった。われわれは、その部屋から奥に続く長い廊下を通って、寝室に案内された。
 部屋に入ると、少しひんやりとして、黴っぽく、得体の知れぬ匂いがした。
 すでに、私たちのためにベットが三つ用意されており、その一つずつのベッドの上に、日本では久しく見かけなくなった蚊帳が吊るしてあった。私は友人の我々に対する心遣いを感じた。
 友人は私の高校時代の同級生である。当時の彼には、無類の受験マニアとでもいった趣があった。私の知る限り、彼は、三年間で大学を少なくとも十数校受験した。そして、北海道の大学を卒業して獣医師の資格を取ったが、ブラジルに来てからも、友人の大学との縁は続いた。当地で、日本の獣医師の資格が認められなかったため、彼は、あらためてブラジル一の名門サンパウロ大学に入学して獣医師の資格を取得したのである。その大学を卒業したとき彼は、もう三十代の終りをむかえようとしていた。



 その昔の受験英語以来、彼は語学を最大の弱点としていた。しかし、ブラジルに来てからは、六、七年間、若い女性によるポルトガル語の個人教授を受けるという、まったくもって、うらやむべき努力を続けたのが功を奏し、今では言葉に不自由することはまったくなくなった。
 友人は現在、所有者から、このファゼンダの管理運営の一切を任されている。われわれが訪れたのは比較的、仕事が落ち着いた時期ではあったそうだが、彼の一日の仕事といえば、朝七時頃にやってくるピヨンたちに一日の仕事の指示をすることと、朝の九時頃に牛を売った代金を受け取って、車で約十五分ほどのロザリオの銀行に届けることくらいであった。
 その友人の給料は月額千ドル。ピヨンのボスが百ドル。ピヨンは六十ドルだ。(ピヨンには給与の他に食事が現物で支給される)  この給料の格差は労使関係にもそのまま反映している。友人は、土地の人々からしばしば「おまえは、ピヨンに甘すぎる」と注意されるというが、その彼がピヨンを“Vem ca”(こっちへ来い)と呼ぶのを聞いてさえ、私には、まるで口笛を吹いて犬を呼ぶように感じられたのである。
(つづく)

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