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2003年07月号 掲載

 
マナウス(ブラジル・アマゾナス州) 
関 洋人 (大洲市在住)
 ブラジルがかつてポルトガルの植民地だった頃、『赤道の向こう(ブラジルのこと)には罪という言葉はない』といわれていたというが、その残渣は、現代にも受け継がれているようだ。ブラジルは単に、サッカー・サンバ・カーニバルの陽気なばかりの国ではない。早い話が、千ドルも出せば簡単に人間を消してくれる社会なのだ。こんな一面ばかり並べていたらブラジル社会はまるで地獄のように見える。しかし、その反面、この国は日本社会と全く違った魅力を湛えていることも事実である。
 たとえば次のような出来事があった。一九七〇年三月十一日、当時のサンパウロ日本総領事大口信夫が三人の極左ゲリラ(VPR)によって誘拐された。大口氏は誘拐された日の四日後に獄中にあったVPRゲリラ五名の釈放とメキシコへの亡命を交換条件として無事釈放された。
 後に大口氏は事件の体験を『外交官誘拐さる』という本にまとめた。大口氏によると、誘拐犯と過ごすことを余儀なくされた丸四日の間に、誘拐犯の三人と大口氏の間に何か通じ合うような、不思議な感情が生まれてきたという。大口氏自身の言葉によれば『たまたま一緒のホテルで同室にされたような気分』だったそうだ。人質交換のために、解放され車から降ろされて、自由の身となった大口氏に、誘拐犯の一人ラディスラス・ドウボルが右手を差し出して握手をもとめた。大口氏は一瞬ためらった後にその手を握り返したという。三人の誘拐犯は事件直後に逮捕されたが、すぐに同じ組織の西ドイツ(当時)大使誘拐によって釈放されて、亡命した。彼らはその後十年の亡命生活の末、一九八〇年に恩赦で帰国した。ゲリラの一人リスチ・ヴィエイラは、一九九三年リオの地球サミットで、国際NGOフォーラムのブラジル代表を務めた。大口氏に握手をもとめたドウボルは、後にサンパウロ市長の国際問題アドバイザーという地位に就いたが、一九九二年仕事で北京へ向かう途中、トランジットで立ち寄った成田で大口氏と再会した。『すぐにドウボルとわかったよ。お互いやあやあってなものさ。罪は罪だが、恨みつらみは恩讐の彼方さ、ね。それにしても、サンパウロ市長のアドバイザーだって?おまけにリスチはNGOのブラジル代表だって? しかしブラジルってのは面白い国だな。』と大口氏はそのときの模様を語っている。

マナウスのオペラ劇場「アマゾナス劇場」
 その後、前掲の氏の著書『外交官誘拐さる』がポルトガル語訳されたのを機に同氏のブラジルの友人達が大口氏夫妻を招いて出版記念パーテイーを開く運びとなった。
ところが日本国外務省から「現地に赴任中の職員たちへの影響を慮れ」との横槍が入り、氏はブラジル行きの断念を余儀なくされることになる。たしか、氏はその二年後に亡くなったはずだ。方や政治犯の前科者といえども能力を発揮して社会復帰が十分にできる国。方や退職後の外交官のささやかな楽しみにさえ、干渉してはばからぬ国。ことほどさように、彼我のお国柄には違いがある。
(つづく)

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