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第16回 双海再見
 
 
 夕日の町おこしで知られる双海町を歩いた。たおやかで明るい海岸線を走る国道から一筋山側の旧道には、年経た酒蔵やれんじ窓の商家がある。役場を過ぎて、なおも山に向かえば、起伏のある地形のそこここに、思いも掛けぬ発見が待っている。双海は、温かく、明るい人気(じんぎ)そのままに、実に懐の広い町である。

 海舟館
 双海町役場を過ぎてJRのガードをくぐり、少し先の住宅の間の細い道を右手に入ると山裾に瓦屋根の大きな民家が見える。その民家の一隅に海舟館がある。「ごめんください」といいながら庭に入っていくと奥の方から「はーい」という声が帰ってきた。若松進さんである。海舟館には、若松さんが子供の頃から乗り込んで、海に出た舟の模型がガラスのケースにびっしりと展示してある。模型は、すべて檜の1木を、約10年掛けて、若松さんがくり抜いて自作したものばかりで、どれもかなり大きなものである。あまりの見事さに、なぜ若松さんが、模型をつくられたのかと聞かずにはいられなかった。
 「私が48歳の時に大病をしてなぁ、目もよう見みえんようになって、ものも言われんようになっとった。1年半くらい寝込んどったら、かあちゃんや息子らが、とうちゃん、目の不自由な人でもちゃんと頑張っとるんやから、なんぞしてみたら言うてな、すすめてくれたんよ」若松さんは、もともと手先が器用だった上に、とにかく舟が大好きだった。父親が双海で初めて舟に据えた焼き玉エンジンを解体しては組立たりするうちに、簡単なエンジンの修理や設計もできるようになったほどだ。学校で習ったのでも、本で読んだのでもない。自分の目で見、さわることでエンジンをはじめ舟のすべてを体得した。「近頃、ほんとに物忘れが多くなったんやが、不思議なことに、昔、舟に乗っとったときのことは、子供の頃のことまで全部おぼえとる」ほとんどが、その正確な記憶をもとにしてこれらの模型はつくられたのであつた。
 若松さんは、12人兄弟の長男で最初に船頭で漁に出たのは尋常小学校を出てすぐ、13歳の時だった。弟をのせて、佐田岬半島の二名津あたりまで漕いで出た。お父さんが五四歳でなくなってからは、12人兄弟と自分の家族2男3女の生活をトメ子さんと2人で漁に出て支えたという。「3度のメシにも事欠くくらい、貧乏じゃったのがわかるでしょう。戦争も2度、ノモンハンと中国に行ったんよ」と淡々と話される若松さんにもトメ子さんにも、不思議なくらい、苦労の影のみじんもない。
 模型を見ながら双海の海での漁のやり方や、5トン30馬力の若吉丸で三宅島や神津島に乗りだし、太平洋の荒波に木の葉のように翻弄された話などをうかがったが、明るく、前向きで、温かいお2人に苦労の種は木っ端みじんに砕け散ったものと得心した。
 翠小学校
 「あんたのええときにいつでもきなさいや」という温かいお言葉を後に、木造校舎が美しいという翠小学校に向かった。道が広田と中山の2手に分かれ、大栄(おおえ)川と上灘川が合流する所に、翠小学校はある。平成9年現在で、男子31名、女子32名、全員で63名の子供たちが学び遊んでいる。開校以来百24年の歴史がある翠小学校の校舎は昭和7年に建てられたものだ。赤い屋根が青い空に映える。増井秀憲校長先生は、「初めてこの学校に赴任したとき、青い空に校舎の赤い屋根がくっきりと映えて、思わずハッとしました」と言われた。子供たちの表情もどこか、伸びやかに見える。翠地区は、平成元年、環境保全への地区をあげての取り組みが評価され、環境庁からゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメボタルの棲息地として「ふるさといきものの里」の認定書を交付された。毎年6月のほたるの里ふたみ「ほたる祭り」はこの学校で開催されている。今年で第11回を迎えたこの催しは、夕方3時半から午後9時まで、トランペット鼓隊のパレードやちびっ子相撲大会なども開かれ、四国朝鮮初中級学校児童との国際交流の場にもなっている。この学校を見ていると、木造校舎が過去のノスタルジーの中に消えていくのではなく、様々に活用されて、祖父や祖母、父や母が学んだ同じ場所で子や孫が今も学ぶということの素晴らしさを強く感じる。学舎が地域の人々の深い愛着を受け、様々に活用されながら、異なる世代が、変わることなく学びの場所を共有し、継承できるということはほんとうに、幸せなことではないだろうか。
 備前焼に出会う
 双海シーサイド公園にもどる。左に上がる道を見ると、備前窯出しの旗が風にはためいている。備前焼創作工房「アトリエ 利久」(電話089-986-1457)とある。松山で陶器店を経営されていたご主人の奥田さんが自ら陶房を開き、最後にたどり着いた無釉の焼き物、備前焼きの創作を始めたものだ。15日もの長い間ひたすら焼き続けることで、火襷や、胡摩など自然の窯変が現れる備前の魅力にとりつかれ、遂に築窯にいたった。双海の山野は自称ガキ大将だった奥田さんの故郷である。作品は魚をモチーフにした陶板や壺など多岐にわたる。そろそろ夕日の美しい時刻である。私は、手頃な大きさのビールジョッキを1つもとめて家路に着いた。

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1996-2012


海舟館の前の四阿で。2人とも70歳を越えるまで漁に出た。「魚は人にうらやまれるくらいいっぱいとったのよ」という若松さんと「春や秋の鯛漁は血が騒いだ」というトメ子さん。
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若松さんご夫婦が託された少年1人を連れて太平洋に乗りだした5トン30馬力の若吉丸

瀬戸内海の打瀬船

漁に出た頃の若松さんとトメ子さん。(撮影 大野 哲治さん)

海舟館内部。海舟は咸臨丸の勝海舟にあやかってつけた名。漁の時に若松さんの網に掛かった紫電改の機銃もある。

若松さんの長男進一さんが瀬戸内海を横断した丸木船。進さんが鑿を振るって制作を手伝った。

子供たち

校長室

校門

教室

階段

給食室への行進

双海町上灘 「備前焼創作工房 アトリエ 利久」
奥田利久さんご夫妻