過去の連載記事
同じ年の連載記事
- 喜路から明海への途上からの宇和海 -  
第135回 日振島紀行
 
 
 残暑の続く秋の終わりに日振島に出かけた。
藤原純友の遺跡をたどり、島の三つの集落を巡った。

 (それぞれの写真をクリックすると大きくなります)
『島の旅』

- 喜路の山の中腹を通る道から明海を望む -

 日振島は、吉田や明浜の海辺から戸島と嘉島の向こうに姿を眺めることはあったが、なかなか訪れる機会がなく、長い間、憧れの島であった。夏に能登の集落や沖の島をたずねる機会があった。しかし、その時は時間が足りず、喜路や明海を訪れる事は出来なかった。
純友の遺跡を見ることもかなわなかった。
 はるか昔の、昭和三十年代の終わり、社会思想社の現代教養文庫に『島の旅』という一冊があった。著作は東大旅行研究会。学生の旅のサークルである。たまたま本屋で手に取ると、中学から高校にかけての夏休みに友人達と毎年、キャンプに出かけた西海の鹿島が出ていたので買い求めた。その本に取り上げられている愛媛県の島は鹿島の他には日振島だけであった。その本に書かれた日振島についての記憶は、百六名もの死者が出た昭和二十四年六月二十日のデラ台風についての記述くらいであった。島を再訪する前の晩に、その文庫本を探し出して、久しぶりに読み返してみた。自然の風景の概観から、日振は元来は「火振」であって、神武東征の砌、火を振って神武天皇の闇夜の航海を助けたという口碑があるという島の名の由来や海賊藤原純友の遺跡など島の歴史のあらまし、当時の島の人々の暮らしぶりまでが学生らしい直截な筆で簡明にまとめてあった。
 時間の経過を考えても、今年の夏に少し訪れた時に見た島の様子からしても、当然、学生達が旅をした昭和三十年代と現在とでは島の風景にも暮しにも大きな変化がある。今回は、定期便の高速船に自転車を積んで出かけることにした。新しく敷設された道路を通って、行き帰りの定期船の時間の合間に島の三つの集落を訪ねるためである。

喜路へ

- 喜路の古い波止の石積 -

 日振島に渡るには宇和島港から直行便の高速船「あさかぜ」が一日三便ある。高速船なら約四十分で日振島に着く。通勤通学の時間の第一便は朝六時発、最初に日振島の能登に着き、明海、喜路と回り、水ヶ浦に寄港して宇和島にもどる。後の二便は日振島の喜路、明海、能登の順に寄港して宇和島に帰ってくる。高速船の他に戸島、嘉島に寄港する普通船「しらさぎ」一便がある。普通船は日振島まで約二時間かかる。因みに船賃は日振島の各集落まで高速船が片道千九百九十円、普通船が千三百六十円、高速船に自転車を積むと別に千四百三十円を支払わなければならない。併せて片道三千四百二十円である。昭和三十九年発行の『島の旅』の巻末にまとめてある島の旅ガイドの日振島の項には宇和島~喜路~明海~能登一日一便二時間四十分片道百五十円と見える。宿は明海部落に二軒の商人宿程度のものがあり、四百五十円よりとあった。

- 高速船あさかぜ -



- 自転車を積むと1430円の追加料金 -

 私は、十一時三十分発の高速船に乗った。宇和島港を出ると船は一気にスピードを上げる。宇和島からは陸続きに見えてしまう九島を過ぎてしばらくすると、右手に吉田の大良鼻にある小島灯台が小さく見えてくる。左右に養殖筏の浮かんだ、入り組んだ海岸線と島々を眺めながら弁当を開く。左手に断崖が続く横島の姿が見えてくるともう日振島最初の寄港地、喜路はすぐ近くである。 『島の旅』にはこうある。
日振島は西北より東南に走る細長い島で、人口約千七百人、面積五・四八平方キロ、島の中央を二百メートルに及ばぬ二つの山が連互し、すぐ海に迫っているため平地が少ない。四国本島に対する表側の出入りの多い海岸は岸壁が設けられ、それに沿って漁村独特の風よけ、波よけのための石垣のある民家が小さな屋根を重ねるようにして続いている」。
人口世帯数は二〇〇七年八月現在で、 百八十六世帯四百六十二人というから、昭和三十年代半ばから較べると人口は三割に満たないほどに、過疎が進んでいる。同書には、豊予海峡を臨む島の裏側は船を寄せ付けぬきびしい断崖が続いているため、島の生活は表側を中心に営まれているとあるが、それは昔も今も変らない。
 コンクリートの岸壁の風景はどの港もどことなく似通ってくる。船を降り、自転車を漕いで、喜路の港の西端まで行ってみた。昔の波止の美しい石積みが見える。写真を撮っていたら、海岸の倉庫の前に立っていた男の人がどこから来たのかと聞いてきた。吉田から来たと答えると自分は「ああ吉田かな。わしは立間からここに、来とるんよ」と気さくに言った。明海(あこ)に行く道を尋ね、来た道を港の方へもどった。
 湾に沿って海沿いに進み、喜路の集落のはずれから広い舗装路を登る。自転車を止めて静かな湾内を見下ろすと、青い空の下に養殖筏が浮かび、その向こうに断崖が屏風のように続く横島が見える。登りのつらさを忘れさせるような青一色の爽やかな風景である。登り切ると、道は左に引き返すように曲がる。以後、明海に下るまで、道は多少のアップダウンと屈曲を繰り返すが、山の中腹を縫うように走っているので、景色が海から離れることはほとんどない。
道を下り切って明海との集落の間の浅瀬をコンクリートで嵩上げして造った道を通り、堤防沿いに進むと、すぐ左手に日振小学校の新しい校舎が見えてくる。ちょうど昼休みの時間で、数人の子供たちが野球をして遊んでいた。

- 夏の日に沖の島で -
沖の島にはハマユウの自生地があり、高台にデラ台風の慰霊碑がある。

- 明海の日振島小学校 -


藤原純友籠居の碑

- みなかわの井戸 -

 『島の旅』の時代には、明海が島の政治・経済・文化の中心地だったと書いてある。役場の支所、郵便局、漁協、農協、診療所、旅館などがほとんどこの部落に集中していたという。今もそれは変らないが、島の道路の整備がほとんど終わったためか、際立った中心性は感じられなくなっている。
 集落に入り、自転車を押して、猫の多い露地に入った。行き違った若い男の人に藤原純友の遺跡の場所を尋ねた。教えられた通りに、背後の山の方へ入る路地を歩いていると、左手の民家のそばに「みなかわの井戸」があった。純友の使った井戸と言い伝えられる井戸である。井戸の上には小さな石仏があり、脇に年経た、藤原純友遺跡という小さな石碑と、反逆児純友が使った「みなかわ」と呼ぶ井戸であるとの宇和島市の説明板があった。純友は城が森から張り出した大松の枝に釣瓶をつけて井戸の水を汲み上げたのだと言う。  井戸の前に居たおじいさんに道をたずねると民家の奥のコンクリートの擁壁の脇から、砦跡への細い上り道を教えてくれた。「山の空に向かって、セメントで固めた道から離れずに上に上がっていけばよい」とのことである。そこに自転車を置かせてもらい、すぐ先の山道に入った。落ち葉や木の枝がかぶさっているが、セメントで表面が固められていて迷うことはない。所々に石垣が残っていて、いかにも砦の跡という雰囲気がする。右に曲がり左にまがりして、十分ほど登ると、空が広がった。「純友公園」である。
 海に向かって自然石の碑が建っている。碑の近くに立つと、海を隔てて宇和島や鬼ヶ城連山が見える。碑の正面には「藤原純友籠居之碑」とあった。背後に回ると、碑を建てた山下亀三郎の感懐が刻んであった。昭和十三年十一月二日に偶々(たまたま)小閑を得て帰省した亀三郎は日振島を訪れこの地を踏んだ。「はるかに思いを千有余年のいにしえに馳す。その賊名を免るる能はざりしを喜ばざるは論なしといえども、扁舟を帥(ひき)いて活躍したる豪壮敢為の行動海国男児としてエライ男だという感もまたやや起こらざるを得ない。すなわち一碑を建立して記念とする 昭和十四年五月 山下亀三郎」。海運王と呼ばれた亀三郎らしい味のある文章ではないか。この海を見下ろす明快な風景を眺めていると亀三郎の純友への共感がよく伝わってくる気がした。
 さて、その亀三郎も喜ばぬ「賊」という名である。当時の日本で海賊とは、単に盗みや略奪をこととする集団ではなく、国家に対する反逆、犯罪をした集団であるとされていたそうだ。
 伊予の海賊として知られる藤原純友には、誕生から伊予の掾(伊予の国司の第3位の官職)に任命されるまでの伝記史料がなく、その生い立ちや人となりは謎につつまれている。その出自については、わずかに伝わる系図などを元に、伊予大洲に生まれた伊予の豪族であるとする説が行われていた。しかし、現在では律令政府が海賊鎮圧のために派遣した藤原氏北家につながる人物であるとする説が有力であるという。(人物叢書『藤原純友』松原弘宣 吉川弘文館)

- 藤原純友籠居之碑 -
伊予吉田の人、山下亀三郎が建碑した。
 純友は天慶二(九三九)年に、海賊追捕に自分が果たした仕事に対する朝廷の恩賞を不服として、瀬戸内海の海賊集団を率いて朝廷に叛旗を翻し、瀬戸内海全域で反乱を組織した。そして、太宰府政庁を焼き打ちにするなどの猛威を振るった後、天慶四(九四一)年五月に博多湾での決戦に敗北し、六月に警固使橘遠保(たちばなのとおやす)に討たれたという。それだけは史実として確かな事とされている。しかし、純友がどのような人であったかは、伝承や口碑から想像を逞しくする他はない。館は松山市の古三津説もあり、砦の跡という言い伝えがある場所は高知の宿毛にもある。それぞれの場所に純友の最後にまつわる口碑や様々な伝説があり、その死に場所についても結局はよくわからない。明海で道を尋ねたおじいさんは純友の墓というものが喜路の山にあるということを教えてくれた。嵐の後に土砂が崩れて鎧や刀が出てきたという。祟るというので余り土地の人は訪れることはないということだった。

能登へ

- 藤原純友の根拠地跡へ登道 -

 自転車を置いた場所に戻り、能登をめざす。明海の集落から神山トンネルという小さなトンネルを抜け、キャンプ場の背後の道を登る。海水浴場やキャンプ場を眺めながら急坂を登る。どんどん上がっていくと日振島トンネルが見えてくる。平成八年に完成した全長百七十五メートルのトンネル。これから下りかと思ってトンネルをくぐるとそうではなかった。まだまだ上がったり下がったりが続く。景色はすばらしい。途中から向い側に、これから下る能登の集落が見えてくる。木々におおわれた道を抜け、小貝崎と島頭の間の入江の奥の砂浜に向かって最後の急な下りを降りる。防波堤沿いの広い道路を再び島頭の方へ登る。登り切ると、正面に沖ノ島がくっきりと見えてくる。最後の工事中の道を慎重に下り能登の集落に入った。自転車のメーターでおおよそ約十二キロほどの行程であった。

- 能登の船着場の辺り -


- 能登の三嶋神社 -

『島の旅』の当時は、明海からサツマ芋畑の間の自転車も通れない細い村道を登り、約一時間半で能登に着いたとあった。途中山頂からの「四方八方海と空。ギラギラと輝く波の息づかいは強烈で空気も澄んでいて何の障害もない太陽の光は島の隅々にまで及んでいる」と当時訪れた学生は書いている。今は畑が山林となり、山の尾根を行く道は繁っていてほとんど使われていない。
『島の旅』当時の子供たちは通学するのがたいへんであった。前夜から停泊して朝四時半に能登を出港する定期船で明海の本校に通学する子がいたことや、「スクールボート」や「通学道路」の建設が強くうったえられていたことを学生達は書き止めている。今は子供の数は減ってしまったが、整備された道路を「スクールバス」が通っている。
 帰りの船の時間まで、夏に来た時に、沖の島に案内していただいた友人のお祖父さんとお祖母さんをたずねた。
 お祖父さんやお祖母さんの時代には水がたいへんだったそうだ。島の山は全てというくらい段々畑に拓かれ、芋や麦が栽培されていた。ネズミの害もあった。今は津島の山財ダムの水が海底を通って島まで来ているので水の心配はない。電気もよほどの事がない限り停電はしない。山の畑はほとんど木が繁ったが、台風の時の風は和らぎ、ネズミは姿を消した。
 お祖父さんとお祖母さんに話を伺った後、まだ少し時間があったので、少し先の三嶋神社に詣った。石橋や狛犬、拝殿や本殿の彫刻が美しい。もう数日で秋祭りとのことであった。日振島の冬は、風が強く波が高い日が多くなるそうだが、次は冬に、山の上を通る道になんとか歩いて上がってみたい。

 
Copyright (C) TAKASHI NINOMIYA. All Rights Reserved.
1996-2012