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- 近藤篤山旧邸 書斎 -  
第142回 近藤篤山の家 その1 聖人いたるべし
西条市 小松
 
 JR小松駅前の交叉点を山の方に入り、旧道にあると聞いたよしの餅を売る和菓子屋をさがすうちに、県の史跡になっている近藤篤山旧邸に行きあたった。近藤篤山は伊予聖人とよばれた江戸の後期から末期にかけての儒者である。たまたま、その日は公開日であったので、見せていただくことにした。

 (それぞれの写真をクリックすると大きくなります)
不勉強のため、まとまりがつかず、少し長くなるので、3回ほど連続します。
「聖人至るべし」

- 小松藩校養正館跡 -

 近藤篤山とは誰か。伊予聖人と呼ばれるその人を私は、ほとんど、名前しか知らない。儒者。それも朱子学者で、陶淵明を好んだ漢詩人でもあった。師は伊予の川之江の人で、寛政の三博士の一人である尾藤二洲。「聖人」と呼ばれる篤山は実際どのように生きた人であったのか。「聖人」という言葉の持つ雰囲気は、只の人には及び難い境地のように思え、私などは、そんな人が目の前に立っていたら、堅苦しくて、敬遠したくなってしまう。しかし、篤山が生きた時代には、そうではなかった。人々は、たまさかに、篤山を聖人と言って敬慕したのではなかった。それは、小松や篤山ゆかりの地の人々が今なお篤山を追慕し、遺墨を守り、顕彰していることでもわかる。
 篤山の屋敷に入る前に、最初に篤山が学んだ、朱子学について、「聖人」について少し遠回りをしたい。私などは、齧ったことさえないのに、朱子学というと江戸幕府の官学で、道学臭が紛々とした、なんとなく、狭く、古めかしいというイメージばかりを抱きがちだった。しかし、朱子学の歴史を振り返ると、全く異なったすがたが現れる。朱子学は、中国の歴史上、類をみないほど、気宇壮大で、中国民族の思想的営為をすべてとりこむほどの底力を湛えている学問だというのだ。故島田虔次は、「朱子学は空前絶後の体系的哲学であり、それ以前の中国民族の思想的な成果はすべてそのなかにとりこまれているといってよい。つまり、中国民族の最大公約数的な表現が朱子学であったということができるのである」(『中国の伝統思想』みすず書房刊。以下の朱子学についての記述はすべて島田の言説に負っている)とまで言いきっている。朱子学はとてつもなく、広く、大きな存在であった。
 仏教が隆盛を極めた唐の時代の後半に唐宋八大家の一人、詩人で政治家でもあった韓愈(かんゆ)が口火を切った儒教復興の運動の後に、宋代に入って儒教は思想界の主流に復活した。そうして、朱子によって大成された儒学が、宋学とも呼ばれる朱子学である。
 問題の「聖人」である。唐以前の儒学では、聖人とは「作者の聖」であるとされている。「作者の聖」とはなにか。引用ばかりで恐縮だが、ここはわかりやすいので、内藤湖南の「聖徳太子」を引用する。「聖徳太子に関して、徳川時代の儒者でこれを作者の聖と称せし人があったが、これは最もよく当たっておって、殆どその人格の全体をつくしていると思う。シナで作者の聖と称するのは、すなわち人民のためにその生活に関する種々の仕事器物など、さらに進んでは文物典章を作った人を聖人とするという意味で、伏犧(ふつぎ)、神農(しんのう)、以下文武周公に至るまで皆そういう性質の人である。」(『日本文化史研究』上 内藤湖南講談社学術文庫所収)
 「作者の聖」は、日本の聖徳太子、すなわち、中国の周公を代表とする聖王たちと同じ意味で文明の建設者の意味である。とすると、朱子学以前の儒学にとって、「作者の聖」の聖人となることはすべての人間にとっての理想ではありえなかった。現実の世界で聖王たちと同列の文明の建設者になることは誰にも可能なことではない。だから、学問の目標は、孔子がその典型であった、「君子」となることであった。
 篤山が生涯学び続けた朱子学ではどうか。朱子学を唐以前の儒学にくらべたときに、画期的なちがいは「聖人」の概念であるといわれる。朱子学において、聖人とは、孟子にある「人倫の至」としての聖人であって、道徳的完成者すなわち、朱子の言うところの「天理に純にして人欲の雑なきもの」であり、その典型は孔子とされる。朱子は「聖人」を内面化することによって、「聖人」になることを、すべての人々の学問の到達可能な目標としたのである。「聖人、学んで、至るべし」。学び続け、欲をなくし、内面を高めていけば誰でもが、道徳的完成者、「聖人」になれる。篤山が聖人と呼ばれたのは、篤山が生涯を通じて、身を堅く持し、弛まず学び続けて、その学問の目標である人欲をなくして聖人に至った人であるということであろう。
 篤山が学んだ朱子学について、もう少し寄り道する。なかなか、私は建物の中に入ることができないが仕方がない。

- 小松の旧道にて -

 私が、ずっと理解の拠り所としている『中国の伝統思想』の冒頭に示された、儒教に対する誤解の痛烈な挿話が二つある。著者の島田虔次は現代の儒者といわれるほど、「儒教における生けるもの」を求め、哀惜し、畏敬の念をもって甦らさんとした思想史家であった。儒教についての誤解は私のような無知の徒だけが持つものではない証左としてあげる。
「それ人は万物の霊とて、天地間に生まるるもの、人より尊きものはなし。殊に我国は神州と号して、世界のうちあらゆる国々、我国に勝れたる風儀なし」。この明治元年京都府が府下人民に与えた「告諭大意」の書き出しを、仏文学者で文芸評論家の中村光夫がその著書『現代日本文学史』第一章の「明治初期」第2節「啓蒙思想」に引用して「この一節の文章に見られる奇妙な思想の混合は、明治人の心理を象徴しています。人は「「万物の霊」であり、天地間にあるもので「人より尊きはなし」というのは西洋の近代思想の反映であり、明治新政の原則であった「四民平等」の精神と表裏をなしています。この近代ヒューマニズムの主張が、一方において封建制度を打破する力として働きながら、他方「神州」の信仰と何の矛盾もなく結びつき……」。島田はこの日本の代表的知識人の一人中村光夫のコメントに対して「まことに奇怪千万といわねばならない」と語っている。「なぜなら、江戸時代の、否、明治中期頃までの書生たちにおいては常識中の常識であったごとく「人は万物の霊」というのは儒教の古典のうちでも最もポピュラーな『書経』泰誓編の言葉、「天地の生むところ唯だ人を尊しとなす」は、そのすぐ下に割りつけられた注釈にほかならぬからである」と。
さらに一つの挿話。
「井出孫六の小説『太陽の葬送』の中に、乃木将軍の殉死に対して「儒教的な、あまりに儒教的なその死」と批判的な感懐を述べたくだりがある。しかしながら、多少とも儒教というものに知識をもつ人であれば、この感懐もまた不思議以外の何ものでもあるまい。乃木将軍の死は武士道の精華とこそいうべきであろうが、どう考えても儒教的ということはできないように思われる。君父に対するいかに深い哀痛であろうとも、それを礼によって抑制して「性を滅せしめない」のこそ儒教の教えであった。汨羅(べきら)に身を投じた忠臣屈原の自殺がしばしば遺憾とせられるのは、すなわちそれである。儒教が要求するのは何よりもまず思慮、そして、思慮によって中庸を守ること、である。直情径行は戎狄(いてき)の美学にすぎない。「士は己を知るもののために死す」というのは侠者のことにすぎない。(侠と儒とは対極概念)事実、歴史をふりかえってみても、社稷(国家)に殉じた臣というものはいくらでも思い出せるが、君王に殉じた臣というのを思い出すのはむつかしい」。
 日本を代表する知識人と呼ばれる人たちの中にさえ、儒教にひどい誤解とあいまいさを持ってものを書く人がいるということなのだが、私などがぼんやりと持っていた儒教や朱子学のイメージもそれほどかけ離れたものではなかっただけに、この挿話を読んだ時は、いきなりガツンと食らった感じだった。
以下は島田の明解な説明を引き写した朱子学についての私の粗雑なメモであるから、読み飛ばして頂きたい。
 朱子学を大きくとらえると、存在論としての「理気説」、文献的な研究としての「経典注釈学」 (たとえば『四書集注』、『詩集伝』)、それらの上に立つ倫理学としての「性即理」の説という三つの部分で構成され、その中でもっとも重要とされるのが「性即理」の倫理学であった。朱子学では、人間の「心」は、天理的な部分である「性」と、たえず人欲に傾く傾向を持つ「情」との複合体考えられている。天理的の「理」の内容は、具体的に五倫五常として示されている。五常とは、仁・義・礼・智・信の五つであり、五倫とは、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五つである。五倫五常は孟子に発した儒教の伝統的徳目が継承されたものだが、その「理」の内容として五倫五常を説いたのが朱子学独特の功績であるとされる。
 朱子は理(各人もしくは各個物に内在する場合を特に「性」という)というものが、決して空虚な単なる要請というものでなく、具体的、内的な規定を持つことをくり返し、くり返し主張している。人間は単なる人間であることはない。必ず誰かの父、同時にまた誰かの臣、誰かの夫、誰かの年長者、誰かの友人である、という形でしか存在しえないものである。逆にいえば、だれの父でもなく、誰の子でもなく、誰の夫でもなく、誰の妻でもなく……というふうな人間はそもそもありえない、というのが根本的な立場である。「性即理」とは、その「性」がすなわち、そのまま「理」だというのである。朱子学の学問とは、天理的な「性」によって人欲に傾く「情」の部分を抑制してゆくということであった。そして、その学問の方法について、朱子は「居敬」と「窮理」の二つを提示している。「居敬」とは道徳律に対する畏敬の念をもつことで、朱子学では学者の生きる姿勢の問題として、もっとも重んぜられている。「窮理」とは、広く事物の道理をきわめて正確な知識を得ることである。

- 近藤篤山旧邸 -

 朱子の存在論では、宇宙間をみたしているのはガス状の物質、「気」であって、その凝集の度合、あるいは、動的か、静的かであるかの状態の差などによって、陰陽-五行-万物いっさいの存在が現象するとされるが、しかしすべての現象は、たんにあるのみでなく、あるべきようにあるのであり、その実態としてはたんなる物質「気」にほかならない万物を、現前しているようにあらしめているもの、それが「理」である。「理」は人間の心のなかに、「性」の部分にあるのみでなく、外なる事々、物々にもある。したがって「性即理」という原理を十分に実現するには、外なる物の理をきわめ、そうすることによって知を完成しなければならないとされる。
(中国の科学技術分野の創造的活動が頂点に達した宋・元の時代には、中国の科学・技術は、いかなる民族の中世文明をとっても比肩するもののない高みに達していた。ヨーロッパ・ルネッサンスの科学や技術の発展に大きな影響と刺激を与えたことが明らかになっている。朱子は卓越した自然学者でもあったが、その面については『朱子の自然学』(山田慶児1978岩波書店)参照)
 
 中国から日本に伝わった儒教には、もちろん日本独自の歴史がある。儒教の盛衰と、日本を代表する知識人にさえも見られる儒教一般についての謬見にも日本のそれぞれの時代の様相が深く関わっていると思われるが、儒教や「朱子学」そのものの本質はいつの時代にも変らないということを踏まえておきたい。学んで聖人に至ったという篤山が、何をどう学んだか爪の垢ほども知っておきたかった。朱子学は、身を修め、よく考えて、世界を理解しようとつとめ、バランスのとれた中庸な生き方を最上として、出処進退を誤らぬための学問であった。

『たそがれ清兵衛』の時代に
 『近藤篤山 小松の文化と教育』、そして数年前に出た加藤国安著『伊予の陶淵明 近藤篤山』の年譜などによって、篤山がこの屋敷に到るまでの生涯をごくおおまかに、たどってみよう。

- 本善寺 -
両親の墓がある。
 近藤篤山は江戸時代の後期、明和3年(1766年)に、宇摩郡小林村(現四国中央市土居町小林南本郷)に生まれた。小林村は、四国山地の麓にあり、前方には燧灘が広がっている。篤山とほぼ同時代を生きた伊予西条藩の朱子学者日野暖太郎が編纂した地誌『西條誌』には、家数135、人数502、東西九町、南北十町、用水は溜め池が四ケ所、石高は五四六石四斗余と記し、百姓持の小さな林が甚だ多かったことを地名の由来とする村民たちの口碑を書き留めている。古墳時代から開かれた土地であって、戦国時代には土豪達が興亡を繰り返し、渋柿城などの城趾も残っている。篤山が生まれた時代から幕末にかけては西条藩領の土居組に属していた。篤山の生家跡は旧道の金比羅街道沿いにあり、「近藤篤山先生生誕之地」の碑が生誕二百年の年である昭和41年に小富士公民館有志によって建てられた。父は小林村の組頭百姓高橋甚内、母は矢野氏の長子。生家は農業の他に薪炭の商いもする裕福な家であったという。家祖は天正14年(1586年)に、筑前(福岡県太宰府市浦城)の岩屋城に籠城して島津忠長と戦って全滅した豊後大友氏の勇将高橋紹運であったという。幼名は大八郎、通称は金作。生家は裕福であったとはいえ、小林村は、「西条誌」に、農耕の用水を溜め池に頼っていたとあるように、村に川はなく、旱魃の時には、水不足に悩む村であったようだ。石高と人口を見ても、どちらかといえば、豊かな村ではなかったと思われる。明和8年(1771年)には、打ち続く饑饉のために篤山の生家も家産が傾き、僅か6歳の年で生母が実家に呼び戻されるという、酷薄な別離にあった。さらに安永4年(1775年) 篤山が十歳の時には困窮が極まって、父甚内が田畑を処分して、小林村を離れ、同じ宇摩郡の別子銅山の小吏となり、一家で別子山に移り住むこととなった。
 柳田國男の『時代ト農政』に「享保丑年(きょうほううしどし)の饑饉なるものは、中国西国の大饑饉でありました。その後引き続き数度の凶作があり、さらにまた天明・天保という間を短く隔てまして二度までの大饑饉がありました。長命の人は一生に二度までの大饑饉に出逢ったのであります。この大饑饉の間に小饑饉の数はいくらあったか知れぬのであります。」とあり、二宮尊徳の報徳社や徳川後期の甘藷先生青木昆陽、中井竹山、佐藤信淵、藤森弘庵らの学者たちが行った救荒本草の研究や三倉(さんそう)の制度の内容についてふれている。柳田はそこで、政治家としての朱子が饑饉救済のために行った社倉の実際的意義についても多くの紙筆を費やしている。そして、朱子学派が徳川幕府の官学であったことが饑饉の害から人々を救済するための社倉の導入に、「非常な便宜」であったともいっている。篤山の師尾藤二洲と親交のあった頼春水(山陽の父)らと同じ朱子学者で、そのごく親しい交友の中にあった漢詩人、備後神辺の人菅茶山(参照記事)は実際に、朱子社倉法を取り入れ、自ら実践してもいる。

- 陣屋跡 -

 話はどんどん、飛ぶが、『たそがれ清兵衛』(2002年)という藤沢周平原作山田洋次監督の映画があった。最初の方に、妻を亡くした貧乏暮らしの下級武士である清兵衛が、勤めから帰ってきて、つましい夕食を終え、老母とおさない娘が寝た後、囲炉裏端で内職をしている。そばで年上の中学生くらいの年かさの娘が縫い物をしている。その娘が「千乗の国を道するに事を敬して信……」であるとか、「曽子曰く、われ日に三度わが身を省みる……」とかなんとか、東北の訛りで論語を暗唱する。実にかわいらしい声だ。清兵衛が、愛情を湛えた眼差しで娘の方を見ながら、「論語でねえか」、自分も子供の頃何度も読んだから、ほんとうになつかしいという。すると、娘がお師匠さんは男子も女子もこれからは学問しなければならないと言ったけれど、「お父はん、お裁縫を習えば、着物とか浴衣が縫えるようになるだろう。だば、学問すれば何をすることができるのだろう」と返す。時代は、ちょうど、篤山が生きだ時代と同じ、幕末に近い頃の設定である。俸禄も食べるのにもぎりぎりの生活で、川には饑饉で餓死した農民の死体が時々流れ着くという時代だ。清兵衛はしばらく考えたあと、そりゃあいいことだ。学問をすれば自分の頭でものを考える力がつく。これからどんな時代が来ても、男子でも女子でも考える力があれば、どうやっても道をきりひらいて、生きていけるみたいなことを、ちょっと正確ではないが、答える。恥ずかしながら、そのシーンで思わず、ほろりとした。欲がまるでなく、うだつが上がらないが、そんなことは少しも意に介さず、子供の成長を喜びに、家族を大切にして生きる人たち。私は篤山の学びの始まりの様子も、意味として、あの映画のようなものではなかったかと思っている。現実はドラマとはもちろん違う。しかし、学問が時代や人々に果たす役割の奥行き、学ぶ側の関わり方の位相の幅が、よく描かれていたと思う。ちなみに藤沢周平の小説は架空のうなさか藩が舞台だが、モデルとおぼしき鶴岡の庄内藩の藩学は、官学の朱子学ではなく、荻生徂徠の古文辞学派であった。映画で「千乗の国を道するに」と聞こえた少女の論語の読み下しは、徂徠が『論語徴』で、朱子に異を唱え、千乗の国をおさむる政治の要諦をのべたのではなく、天子が諸国の国々を巡行する時にと解したのを、汲んだ読み方にしてあったのかもしれない。
それは、ともかく論語は論語だ。そして、粗雑な言い方をさせてもらうと、伊予小松藩会所日記(集英社新書)などを読むと、うなさか藩も小松藩も台所の苦しさや藩士、領民の暮らしの様相はそれほど異なったものではないと思うのである。
 篤山と幼い弟(後の西条藩藩儒三品容斎)は、銅山の荒々しい生活を目の当たりにしながら、粗末な家に起居し、読書に励む毎日を送ったという。篤山たちが暮したのは小足谷といわれる。別子銅山は、元禄三年(1690年)に発見され、当時は世界有数の産出量があった。篤山の一家が入山する少し前の記録に坑夫約三千七百人、山中総人口一万人以上とあるという。(参照記事:銅山跡の現在について
 篤山は幼少期を絶えざる貧窮のうちに送り、生母や故郷との別離というつらい出来事に出あいながらも、父や弟とともに、よく苦しみに耐えて学問に励んだ。天明元年(1781年)になって、前年に新しい妻を迎えた父の計らいもあり、16歳の篤山は別子山から今治に出たりしながら、学問を続けることになる。そして、天明8年(1788年)、23歳の時に、弟を連れ、京都を経て大阪に出る。大阪では、伊予国川之江出身の朱子学者尾藤二洲の下で、貧しい暮らしに耐え、儒学を学んだ。師の二洲はその後に、幕府官学の本拠、昌平黌の教授となり江戸に行き、柴野栗山、古賀精里とともに「寛政の三博士」と呼ばれる。篤山は、曲折を経ながら、二洲の後に従い、その庇護を受けて、江戸の昌平黌に三年間学ぶなどして、学を大成した。
 寛政9年(1797年)、32歳の年、篤山は決然として師二洲の慰留と制止を謝絶し、昌平黌を辞して、別子銅山の父母の下に帰郷する。ただ、父母への孝養のための決断であった。帰郷の翌年に、川之江の昌平黌の同門、長野豊山の実家に仮寓して、塾を開いた。川之江市新町の長野家の前に塾跡の碑が立っている。旧土佐街道に面した場所で、長野家の屋敷は土佐藩が本陣に使ったともいう。翌年には妻を迎えた。
 父が銅山を去り、大生院に隠居した享和2年(1802)年、篤山は小松藩に賓師(藩主の学問の師)として招かれる。小松藩は藩校「培達校」を創設したところであった。(『たそがれ清兵衛』のモデルとおぼしき庄内藩の藩校致道館は文化2年(1805年)に創設されている。化政期は疲弊する幕藩体制に対して諸藩の多くが学問の振興で巻き返しを図った。)翌、享和三年、培達校は養正館と名を改めて拡張され、篤山が教授役に就任した。篤山は、大生院の家に移り住んで、父母と同居し、川之江の塾と小松藩校を行き来しながら教えていたが、文化三年(1806年)41歳の時に、小松藩侯の切望を請け、小松に居を移すことになる。小松で篤山が生涯を終えるまで過したのが、この近藤篤山旧邸であった。
(続く)
次回は旧邸の内部について、次々回は「伊予の陶淵明」と呼ぶ人もいる篤山の漢詩について、そして篤山の墓所などを訪ねます。

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