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第120回 雲居(うんご)紀行 (第1回)
〈連載10年記念〉 
 伊予市下三谷~仙台瑞巌寺~大梅寺
 伊予市三谷で生まれ、松島瑞巌寺の中興開山となった名僧雲居希膺(うんごきよう)の跡を尋ね、仙台に出かけた。

伊予と仙台
 周知の通り、愛媛県の南予地方と東北仙台の縁は思いのほかに深い。宇和島伊達藩の藩祖伊達秀宗は伊達政宗の長子であり、そもそも宇和島藩は政宗によってつくられたようなものである。試しに、仙台で土地の人に宇和島から来たと言ってみるがよい。必ずといってよい位、相手の表情が柔らかくなるはずだ。旧宇和島伊達藩領には、佐田岬半島突端近くの名取のように、仙台藩から移住してきた人たちが故郷と同じ名の集落を作ったところもあるし、八鹿踊りなど、祭礼の踊りにしても、食や習俗にしても、遠く離れた2つの土地に、ルーツを同じくして、伝わるものが少なからずある。
 今回、私が仙台を訪ねたのは、伊達政宗が秀宗を送って、宇和島の町を拓く以前、戦国時代の末に伊予に生まれた名僧の跡を訪ねるためである。

ドン・パウロから雲居国師へ
 先月に訪れた宇和島市戸島に墓のあるキリシタン大名ドン・パウロ一條兼定は、長宗我部元親との戦いで傷を負い、伊予の道後温泉に治療のために滞在したことがあったという。兼定が道後に滞在した時期と理由について定説と言いうるものはないが、道後には傷に効く日本最古の温泉があったこと、さらに長宗我部の対抗勢力であった湯築城河野氏の庇護があったからともいう。道後がヴァチカンの資料に見えるように、セミナリオや礼拝堂もあったキリシタンに縁の深い土地であったからとも考えることができるだろう。仮に兼定が道後に来たという事実がなかったとしても、傷に効く、宣教師たちが持ち来った医薬品、あるいは治療法の知識を得るために使者を送った可能性はあるだろう。
 いずれにせよ、道後に居たドン・パウロを介護するためかあるいは薬を得るためにか、天正10年小浜左京という一條兼定の家臣の妻が道後に向かった。ところが、その女性が、道中、俄に産気づき、現在の伊予市三谷の山中にあったという毘沙門堂で男子を産み落とした。その子が、雲居国師だというのである。現在伝えられる雲居国師の年譜には多少の表現の違いはあるが、伊予の三谷(みたに)の毘沙門堂が生誕地であることだけは間違いのないことと書かれている。三谷の辺りには河野氏と関係のあった社寺が多いということでもあるし、雲居国師の母が、お産をする場所としては安全な場所であったと思われる。私はこのところ関心を深めていたドン・パウロから雲居国師へとつながる意外な展開に驚きをおさえることができなかった。
 雲居国師は、芭蕉の「奥の細道」にも名が見える松島瑞巌寺中興開山の名僧である。仙台ではもちろんよく知られた人であるが、生誕地の伊予では、それほど多くの人に知られてはいない。私などは、たまたま伊予市の生誕地の話を教えてくれる人があったことと、郷土史家でもある豊豫社菊池住幸氏にお借りした堀井順次著「秘史の証言」に、雲居国師がドン・パウロの遺児であるという新説が書かれていたのに気がついたからに過ぎない。雲居の生涯については何も知らぬのと同じであった。
 伊達政宗の遺命を受けた後嗣、忠宗のもとめに応じて、瑞巌寺の中興開山となった雲居国師について、松尾芭蕉の『奥の細道』には「11日瑞巌寺に詣づ。当寺、32世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、その後に雲居禅師の徳化によりて、七堂甍(しちどういらか)改まりて、金碧荘厳(こんぺきしょうごん)光を輝かし、仏土成就の大伽藍とはなれりける」とある。雲居は、諸国行脚を繰り返し、山を愛した。厳しい修業に耐え、戒律を守ったが、酒を愛する一面もあり、伊達政宗の忌日には、自他に酒を許すという懐の広い人でもあった。そして、わかりやすく禅を説くために、『往生要歌(おうじょうようか)』を作り、禅者でありながら、信念を持って念仏を称揚したため、士庶を問わず、多くの人々を「徳化」し瑞巌寺今日の礎を築いたという。
 『雲居和尚年譜(平野宗浄著 思文閣出版)』により、雲居国師の生涯を簡単にたどってみたい。伊予の三谷で生まれた雲居は、戦乱の世から我が子を遠ざけようという父の配慮で、9歳の時に土佐中村の太平寺に預けられる。その後、16歳の時に、師の真西堂(しんせいどう)とともに土佐を去り、京都東福寺へ。しかし父の願いとはうらはらに、雲居の修行時代は、いかようにも、戦乱を避けようのない時代であった。先ず、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの年に、妙心寺山内の蟠桃院(はんとういん)へ。一宙東黙(いっちゅうとうもく)の門に入った。蟠桃院は豊臣家五奉行の1人、前田玄以がスポンサーであった。そして、大坂冬の陣の年、慶長19年(1614年)、33歳の時に雲居は師の一宙から印可を受けた。その翌年、豊臣家が滅亡した大坂夏の陣に際しては、かねて親交のあった豪傑、塙団右衛門直之(ばんだんえもんなおゆき)に、預かっていた鎧を届けるため大坂城を訪ね、捕らえられるという挿話も伝えられている。徳川家康は朋友への義に殉じようとした雲居を罪に問わなかったという。その年、諱号を雲居希膺と改めた。
 その後、諸国を巡歴、伊予松山の天徳寺の南源宗薫を通じて加藤嘉明・明成父子の帰依を受ける。松山には、9年間滞在したが、さらに寛永7年(1630年)に雲居は再び諸国行脚の旅に立つ。雲居は修業の旅のさ中に多くの山に登ったという。雲居は、自らのことを「黒面翁」と表現したそうだが、顔は赤銅色に日焼けしていたと言う。
 雲居が伊達政宗・忠宗父子の再三にわたる招きを遂に受け入れ松島瑞巌寺に入山したのは寛永13年(1636年)。雲居の仙台入りは政宗の死後のことであったが、雲居は政宗の正妻、陽徳院らのあたたかい庇護を受けた。雲居国師が亡くなったのは、万治2年(1659年)、陽徳院の寄進した仙台市の江六村の綱木山(蕃山)にある碇ヶ埼の繋船亭。現在の大梅寺境内であった。

仙台へ
 5月半ば、伊予市の三谷の生誕地比定地を訪ねた後、月末に仙台へ出かけた。先ず、瑞巌寺本堂に上がり、正面左手に安置してある、雲居国師の顔の白い木像を拝観し、宝物館で「私の字は読む人にわかればよい」と言って書いたという雲居の墨跡や政宗、陽徳院の木像を見た後、境内の処々を歩いた。「はて知らずの記」の旅の途上、松島に来た子規が脇に刻まれた乙二の句を褒めたという芭蕉碑を見、円通院の前の藤棚の美しい藁葺きの茶店で休んだ。山門を潜って海岸に出、有名な五大堂を見た後、塩竈行きの遊覧船に乗った。出帆後に、『奥の細道』にも雲居が参禅したと記述のある把不住軒(はふじゅうけん)のある雄島を見逃したことに気がついたが後の祭り。船室の窓を開け放ち、スピーカーから聞こえてくる案内の声に従って左右に見える松島の島々を眺めながら40分ほどの小さな船旅であった。

大梅寺にて
 松山に帰る日の早朝、雲居が遷化した仙台市茂庭綱木の大梅寺をたずねた。林の中に続く石段の参道を登り切ると中腹に境内がある。
 幸運にも星悠雲(ゆううん)老師にお会いすることができた。老師は本堂で、江六という土地や、かつて政宗が白鹿をもとめて巻狩をしたという蕃山(綱木山)の歴史から、雲居の人柄、境内の雲居禅師遷化の地についてまで、詳しく、縦横に語って下さり、ご本尊の釈迦如来と雲居愛蔵の毘沙門天像を拝させて下さった。雲居は境内の碇ヶ崎という所にあった繋船亭(けいせんてい)という小堂で亡くなったそうだが、当時の建物は現存しない。仙台市中を流れる広瀬川が、烏ヶ崎という流れが狭くなった場所で雲を湧かせ、それが蕃山に雲海を生じさせる。碇ヶ崎とは雲海を海に見立てた地名であった。碇を下ろす場所に雲居は繋船亭と名付けた小堂を建て、毘沙門天を安置したという。雲居はその小亭を終の場所と自ら定めた。老師は、そのことを記憶するため、最近境内に移築された建物に繋船亭の扁額を掛けられその裏面に雲居国師と繋船亭の来歴を刻まれたという。
 遷化の地、碇ヶ崎の場所を教えていただいた後、開山堂で雲居禅師の木像を見せていただいた。老師は「雲居さんはアルピニストだったんだよ。ほらお顔が日焼けしてるでしょ」
と穏やかな笑みを浮かべられた。雲居の豪毅で温かい人柄が、私にも、少しだけわかってきたような思いがした。
(つづく)

〈参考〉
『雲居和尚年譜』平野宗浄著 思文閣出版刊・『雲居和尚墨跡集』瑞巌寺・『瑞巌寺誌』村山泰応著 宝文堂刊・『雲居国師と三谷』堀井恭弐著・『伊予の名僧・傑僧』越智通敏著 えひめブックス・『子規全集』13巻

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瑞巌寺庫裡
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瑞巌寺境内茶店の藤棚

大梅寺住職星悠雲老師。元仙台市博物館長。大梅寺のある蕃山の自然を無法な開発行為から守るために尽力された。

松島瑞巌寺本堂御成門玄関欄間の「葡萄と栗鼠」の彫刻。左甚五郎作という。
この彫刻を見た感懐を歌った東北学院教師時代の島崎藤村の詩が「若菜集」にある。

生誕地から松山を眺める。霞んでいるが瀬戸内海や、松山城が臨める場所だ。

雲居国師生誕地。御堂は瑞巌寺の寄進で新しく、中に安置された毘沙門天も弁財天も当時のものではない。生誕地は年譜と礎石と口碑で特定された。

大梅寺の雲居遷化の地の「繋船亭」に安置されていた雲居遺愛の毘沙門天像。
平安時代末期。

仙台市茂庭綱木の大梅寺開山堂に伝わる江戸初期の雲居国師木像。日焼けした「黒面翁」、アルピニスト雲居の風貌を伝える。
星悠雲老師が寺に伝わる雲居の禅板を頤にあててみたところ、雲居は背の高い人であったことよくわかったと話されていた。

松山市天徳寺。空襲をまぬがれた創建当初の建物。

大梅寺参道 大梅寺の参道には『草枕』の文学碑がある。漱石がこの寺の名とこの寺に住した明治の禅僧南天棒の名を小説中に記していることによる。南天棒は乃木将軍等も禅の指導を受けた。