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第87回 信濃川大河津分水紀行
ある土木技術者のふるさと(二) 
新潟県分水町 
 前回は戦前に活躍した土木技術者宮本武之輔の生まれた愛媛県松山市興居島を訪ねた。今回は宮本の第2の故郷ともいうべき新潟県分水町に出かけてみた。分水町は技術者としての宮本が生涯をかけた信濃川補修工事が行われた所である。

 狂言『技術者』
 宮本武之輔が残した全22巻にわたる厖大な日記を保管し、私財を投じてオフセット印刷で刊行した本多静雄という人がいる。
 愛知県豊田市の人で、宮本の企画院時代に部下として仕えた人である。戦後は実業家として活躍する一方、陶芸研究家としても知られ、平成11年に101歳で亡くなった。「物語戦後文学史」で知られる本多秋五は静雄氏の弟にあたる。
 その本多静雄氏が宮本武之輔を語った「技術者」という現代語の狂言が『久遠の人 宮本 武之輔写真集-民衆とともにを高く掲げた土木技術者』(監修高崎哲郎 社団法人北陸建設弘済会刊)にある。
 本多氏は編集者から2,000字ほどのエッセイをもとめられたのであるが、敢えて青隹という筆名で「狂言」を書いて応えた。「狂言」の形式にこだわった本多氏の心に残る言葉を引いておきたい。
「能と狂言とは1種の付き物であるが、能は権力者の悲哀であり、狂言は民衆の哄笑である。私は悲哀よりも哄笑が好きだから、故宮本武之輔さんの追善のために、この狂言を贈ることにする」。
 本多氏の「狂言」は、氏の宮本に対する深い思いを過不足なく語っていて感動を誘う。
氏は宮本の5歳年下だが、誕生日が同じ正月5日。氏は生涯で尊敬する四人の恩師というか大先輩の3番手に宮本をあげ、交際は短かったが印象は1番濃いと率直に書いている。
「宮本氏は世界と戦争を始めた同年の12月8日から多忙を極めたのである。12月15日から感冒をこじらせ、とうとう急性肺炎で、せんべい布団の上で死んで仕舞った。私も驚いたが、技術者運動の中核であり総帥でもある人が突然亡くなったので、技術者運動一同の驚きも大変であった」「この人は大人の風格があった。人を魅了する素質があったと思う。もっと生きていたら必ず総理大臣になる人だと思う。生来の頑健さに自信を持ったのか、摂生に努めなかった。自分の頑健を知り、自制が少なかったと思う。かえすがえすも残念である。日本は有能な人を、人生50年で失ったのである。」
 本多氏は宮本は宰相の器であったといい、官庁組織における法科偏重に対抗する内務技術者の中心的存在を失って途方に暮れたという。しかし、いちばん氏が惜しんだのは宮本の愛すべき人柄であったことが行間から伺われる。本多氏は啄木が日記をローマ字で書いたような事情で宮本の日記を預かった。そして宮本の死の30年後に日記の封印を解いた。その日記の実物は氏によって信濃川大河津分水資料館に寄託されている。
 大河津分水路
 8月22日、東京への出張の帰りに大河津分水のある新潟県分水町を訪ねた。上越新幹線の始発で東京から2時間、燕三条駅で下車して駅前でレンタカーを借りた。地図を見ながら約30分で信濃川の堤防のすぐ下にある大河津分水資料館に着いた。開館時間の九時を少しまわったところであった。入場は無料。開館したばかりで、他に来館者の姿はない。中に入って最初に大河津分水についての10分くらいの解説ビデオを1人で見た。分水路でつりを楽しむ親子の会話の中で、信濃川の分水が実現されるまでの歴史がわかりやすく説明されている。古来、日本一の大河信濃川の洪水に襲われていた越後平野では多くの先覚者たちが治水に取り組んで来た。日本海への最短距離の地点で信濃川がカーブするこの大河津からまっすぐ日本海に注ぐ人工の分水路を開削しようという発想は江戸時代からのものだという。18世紀初めの享保年間に寺泊の庄屋、本間数右衛門親子が2代にわたって分水路の開削を江戸幕府に働きかけたが、実際に工事が着手されたのは明治になってからのことであった。着工後も明治初頭の土木技術水準に比べて工事の規模があまりに大きかったこともあり、多くの紆余曲折があった。工事が本格化したのは明治29年に「横田切れ」という大水害が起きた後のことであった。
 本間親子の運動から、大正11年(1922年)に大河津分水路が完成するまでには200年近くかかったことになる。大河津分水の工事には当時の最先端の土木技術が用いられ、完成までに延べ1,000万人の労力と15年の工期が費やされた。以後、信濃川の水量が増えたときには大河津分水から日本海へ放水できるようになって下流域には、洪水による氾濫の危険性がほとんどなくなった。今日、新潟平野が米所として知られるのも、また新潟市が発展したのもすべて大河津分水路のたまものであるというのがビデオの大団円であった。
 映写室を出て、エレベーターで最上階の展望室に上がった。屋上に出ると、海に向かって一直線に延びる大河津分水路が一望できた。宮本武之輔が手がけた可動堰も見える。分水路は分水した後の信濃川より川幅が広く、とても人工の水路とは思えないほど自然の景色にとけこんでいた。
 良寛さんの漢詩
 2階に下り、分水路開削の土木工事や宮本武之輔の展示を見た後、新旧の洗堰や可動堰、そして信濃川補修工事竣工碑を見るために資料館を出て堤防の道に上がった。昭和6年に宮本らの労苦によって完成した可動堰は今もつくられた当時の姿のままだ。近年、新しい洗堰が出来て役割を終えた古い洗堰は親水公園の中に登録文化財として保存されている。長い分水による治水の歴史が1カ所で眺めることができるように配慮してあるのである。
 私は、可動堰から上流に少し戻り、新しい洗堰を通って対岸に渡った。水面下にある魚道観察室を見た後、引き返して堤防の下の公園にある信濃川補修工事竣工碑を見た。表には「万象ニ天意ヲ覚ユル者ハ幸ナリ」とある。裏には「人類ノ為メ、国ノ為メ」とある。ともに世界共通言語のエスペラント訳が付けてある。まず人類のためという青山の撰した碑文の心意気にあらためて打たれる。青山は補修工事が竣工したときに、宮本の労をねぎらった後に、越後平野が日本有数の穀倉地帯となり、貧困ゆえの人身売買の悪弊が一掃されるだろうと喜びを語ったそうだ。碑のあるあたりから、分水路の下流を眺めるとなだらかな姿の山が見える。国上山という。江戸時代後期に良寛さんが長く暮らした五合庵がある山である。さきほど訪れた資料館には洪水の災禍をなげく農民に感情移入した良寛さんの漢詩と水上勉の口語訳が展示してあった。良寛の生きた時代には洪水はいかにしても避けられぬものであり、質朴な農民たちにさえ、神の存在を疑わせるものであった。ただ嘆き悲しむしかない出来事であったのである。青山や宮本という明治という新しい時代に育った土木技術者には、社稷を思う強い志と気骨があった。良寛さんが農民を思う心に通じるモラルを新技術に血を通わせる糧としたともいえよう。まず人類のためと言い切る彼らの見識と気概こそ、後進が受け継ぐべきものではないだろうかと思った。
 昼前に大河津を立ち、分水町の良寛史料館を急いで見た後、分水路ぞいの道に戻った。河口近くの野積橋から海沿いの道に出て柏崎に向かう。寺泊から柏崎への海沿いの道は景色も良く途上には良寛さんの生地出雲崎の町があるとは、分水町良寛史料館の受付の方の親切なご教示であった。

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1996-2012


昭和6年6月に完成した信濃川大河津可動堰。宮本武之輔の設計。70年経った今も現役で流量を調節する役割を果たしている。
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信濃川大河津資料館は、明治9年から始められた信濃川の治水工事の100周年を記念して建てられたもの。平成14年にリニューアルオープンし、展望室からは大河津分水周辺の美しい景色を眺めることができる。資料館屋上より見た大河津可動全景

登録文化財として保存されている旧洗堰

人工の水路、大河津分水の河口に近い野積橋手前の床固め。河床が剔られるのを防ぐ。

信濃川補修工事竣工記念碑に刻まれた宮本武之輔の名。隣には青山士の名がある。

資料館の展示。江戸時代以来の流域の人々が治水に傾けた努力がわかりやすく展示されている。宮本武之輔の日記や著書も展示してある。

信濃川竣工工事に携わった全ての人々を顕彰する碑。

分水町は良寛さんが暮らした国上山の五合庵がある町。分水町良寛史料館の良寛像。

出雲崎の町並みでみかけた洋館

良寛が生まれた出雲崎の町

出雲崎の良寛記念館の庭園。