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第60回 「龍馬脱藩の道」紀行 その2
九十九曲(くじゅうくまがり)峠を越える 
高知県檮原町~愛媛県城川町 
 1月の終わりに高知県須崎市から檮原町まで、かなり、アバウトにのんびりと「龍馬脱藩の道」をマウンテンバイクで走った。檮原の太郎川公園で雪が舞ってきたので中断し、しばらく時を過ごしていたが、5月中旬に「龍馬脱藩の道」九十九曲峠を越えるグループと一緒に山を越える機会を得た。

 新説・旧説
 4月11日の毎日新聞に「古道山歩―龍馬みち」というコラムが掲載された。筆者は佐竹通男毎日新聞学芸部編集委員である。佐竹記者が越えた「龍馬脱藩の道」は、一世を風靡した感のある韮ケ峠越えのルートではない。昔から吉村虎太郎ら多くの志士たちが越えていった九十九曲峠越えの道である。
 一昔前は、龍馬が越えた道と言えば檮原の宮野々から城川町川津南に下る九十九曲峠越えの道であった。現在では、文久2年3月26日(1862年4月24日)に龍馬とともに脱藩した沢村惣之丞が語った脱藩ルートを、龍馬の姉の夫高松小埜が書き取った「覚/関雄之助口供之事」の「写し(実物は現存しない)」をもとに「解明された」韮ケ峠から河辺村、五十崎町を通ったという説が支配的になっている。
 しかし、その新説に関わりなく、今なお九十九曲峠を龍馬が越えたのだと考えている人は少なくない。土地の古老たちは孫や子にここを龍馬さんが通ったと語り続けている。実際に歩いて九十九曲峠を越えた人たちも異口同音に、この道こそ龍馬が越えた道にふさわしい道という。
 佐竹記者は、新説の一片の「写し」を根拠とする断定は性急に過ぎると思い、「街道をゆく 檮原街道」で司馬遼太郎も「龍馬脱藩の道」として採った九十九曲峠をめざしたと書いている。そして、峠を実際に踏破してみたら、その道があまりに素晴らしかったので、九十九曲峠越えをハイライトとする大阪発のバス・ツアーを企画した。すると、80歳を越える女性から、20代の女性まで20人近くの人が参加を希望したというわけである。
 新説に押されて、やや忘れられた感のある峠を遠来の人たちが歩くというのを聞いて、峠の麓の川津南の人たちはすすんで道の刈り払いを行った。当日は、地元の史談会会長の西岡圭造さんや城川町役場の助役さんたちが一行をサポートすることになった。私は偶然、川津南でこの話を聞き、運良く、同行させてもらうことになったのである。
 九十九曲峠へ
 5月19日快晴。私は、8時過ぎにツアーの人たちが九十九曲峠に出発する檮原町広野に着いた。民家の前に車を止めさせてもらい、マウンテンバイクを降ろしているとツアー・バスが到着した。まず宮野々の関所跡に向けて歩きはじめる。私は帰りのためにマウンテンバイクを押していくので、いちばん後からゆっくりと登らせてもらうことにした。民家の脇から暗い杉林の中を、小さな谷沿いに登り、平坦になった山道を少し歩いて下ると、宮野々関所跡の横に出た。関所のあった民家の前に明治天皇に長くつかえた宮内大臣田中光顕筆の宮野々関門旧址の碑が建っている。碑の裏側にまわって刻まれた坂本龍馬や吉村虎太郎ら脱藩した「土佐勤王烈士」12人の名を見る。
 関跡の前の畑の中の畦道を下って川沿いに少し戻ると新しい橋がある。その橋を渡って左に少し行くと民家の脇に「維新の道の入口」の看板がある。最初はつま先上がりの道が続く。それほどきつい登りではないが、少しずつ息がはずんでくる。バイクはまるで役に立たない。棚田の跡の石垣や民家の基礎の石垣が杉の植林の中に残る。つづら折れの道を登りつめると、「穴の峠」につく。昔は人馬ともども汗を入れた場所というが今は展望があまりきかない。ふたたびつま先上がりの道を進み、「岩木戸」という両側から門のように岩が迫り出した場所を過ぎると、すぐに左から水音が聞こえてくる。清冽な流れが小さな滝を作っている。ツアーの人たちは健脚揃いで、私1人が遅れ遅れでついていったのだが、この辺りから道が平坦になり、ようやく追いつくことが出来た。顔を上げると山ツツジが満開で夢のように美しい。ここまでくれば頂上は近い。湿地にさしかかったところで、城川町史談会の西岡圭造会長が伊予の側から峠を越えて迎えに来て下さった。水ガヤや水ゴケが自生する湿地帯を一行の殿軍を務められている助役さんの踏み跡を辿って進む。佐野記者は「派手な音を立ててキジが低空を飛んだ。見とれていると山靴が5センチほど埋まった」と書いていたが、美しい新緑や山ツツジにも目をうばわれるし、この湿原を1人で歩くときには少し注意が必要かもしれない。まれにマムシに出くわすこともあるというし。
 湿地帯を越えると、伐採されて一気に空が広くなった。古い石の道しるべを過ぎるとすぐに峠の頂上に着いた。昭和10年9月檮原村の建立した石標がある。「勤王志士脱藩遺蹟 九十九曲峠」とあり、碑の側面に土佐の郷土史研究家寺石正路の詠んだ歌「再びと帰り来ぬべきふるさとを出でし心はいかにありけん」が刻まれている。昭和10年は、維新の記憶を祖父や、父から聞けた人たちが活躍していた時代である。当時、土佐の人たちにとって、脱藩の路といえば九十九曲峠であったわけだ。ここで昼の弁当を開いて大休止。
 脱藩の道、暮らしの道
 峠の頂上からは、杉林の中の地経(じみち)、すなわち脱藩当時の古い路を行くことも、林道を下ることもできる。脱藩の路は日吉から上がるスーパー林道と峠から下る林道と途中で交差し、4つの「曲群(まがりぐん)」に分かれている。今日は史談会の西岡会長の案内を得て、一行は当然脱藩の路を下る。私は押して上がったマウンテンバイクで林道を「第1曲群」まで下り、スーパー林道と脱藩の路が交差する「龍馬の小便杉」のところで一行を待ち受けることにした。未舗装なので慎重に下ったが、わずか数分で龍馬がほっと一息ついて立ち小便をしたという杉の巨木の下についた。脱藩の路は真っ直ぐなので、一行もすぐに到着。私は第2曲群も自転車で下った。第3曲群からはふたたび一行と歩く。第4曲群には慶応3年の道標、安政3年のお地蔵さんなどがある。建てたのはみな近郷の庶民であって、この路が古くから伊予と土佐との物産の往来に使われた暮らしの路としてよくつかわれていたことを示している。
 無住の方の山崎家を過ぎると路の側に小さな流れが近づいてくる。しばらく流れに沿ってすすみ杉林を下ると、林道に出て、峠の麓、日原橋に着いた。
 一行は迎えに来たバスに乗る。私はまたマウンテンバイクに乗る。九十九曲峠を越えてきた志士たちを受け入れもてなした川津南の福松という農民の家の跡や「城川かるた」に「勤王の龍馬が越えし大門峠」とある大門峠を通って、宝泉坊温泉に着いたのは午後2時半過ぎだった。一行は町役場の心づくしで入湯無料の「ご接待」を受けた後、西岡さんの案内で城川町土居の蘭方医矢野杏仙の屋敷跡に向かった。矢野杏仙は坂本龍馬や吉村虎太郎を初め多くの脱藩の若者たちを支援したと言い伝えられている。
 案内に立たれた西岡さんが現地で細かく解説された通り、林道に分断された九十九曲峠の道は、すべて昔のままというわけではない。しかし、昔と今の風景がどう変わったかということがこんなにきちんとわかるところは少ないし、幸いにも昔のままの姿をとどめている部分が、他の脱藩の道に比してはるかに多いことは間違いがないことだ。自然が豊かで歩いて実に楽しいこと、そして城川の人たちの誠実で無類に温かいサポートへの感激が旅の喜びを倍加することはいくら言っても言い足りない。それが歩き通した遠来の参加者たちの一致した気持ちであったと私は確信している。(つづく)

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1996-2012


第3曲群を下る一行
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馬頭観音(土佐側)

宮野々関跡

昭和16年の道標を見る毎日新聞佐竹編集委員