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第63回 法華津峠行
 
東宇和郡宇和町 
 東宇和郡宇和町伊賀上から法華津峠にのぼった。枯れた落ち葉が降りつんだ下に、石畳の道が眠っていた。江戸の初めに宇和島に入国した伊達秀宗が通り、幕末には村田蔵六や高野長英、二宮敬作、楠本イネなども往来した歴史の道である。

 8月はじめに、宇和町の人たち約50人が、シーボルトの娘のおイネさんが二宮敬作の甥の三瀬周三と法華津峠を越えて宇和島に通い、村田蔵六から蘭学を学んだという口碑に因んで法華津峠の旧道を越えたという。私は、法華津峠に石畳の道が残っているということを「宇和の歴史探訪記」(門多正志著 宇和町郷土文化保存会刊)で読んではいたが、1度も通ったことがなかった。今回は子供たちも峠を越えて宇和島まで歩いたというので、それならば、迷うこともないだろうと思い立って歩いてみることにした。
 8月18日の日曜日、朝7時過ぎに宇和町伊賀上の国道から法華津峠という案内標識にしたがって左に入った。200メートルほど先の曲がり角にカーブミラーがあるが、そこが峠に通じる旧道の入口である。なんの案内板もないがどことなくここが入口という雰囲気はある。左手に古谷さんというお宅がある。歩き始める旧道の真ん中に猫がいてこちらを見ていた。道は、そこからすぐ桧の林の中に入る。今日は1人だし、歩いたことのない道なので多少、不安を感じる。「今年はマムシが多い」などという知人の言葉も頭の半分位を占めている。草が路面を覆った場所ではつい足早にもなる。が、両側は杉の木立で日が直射しない上に、勾配もわりと緩やかで歩きやすい道なので、そのうち少しずつ気分も落ち着いて、朝の空気を味わう余裕が出てきた。道が葛折になって高度をかせぐ。ふたたび登りが緩やかになった頃、石畳の道が現れた。昔は法華津坂と呼んでいたというこの坂道は実に堂々とした風格を感じさせる道だ。幅が1メートル半くらいはあるだろうか。ところどころにコンクリートの側溝がつくられているが、石畳の路面と同じく、落ち葉が積もり、苔がむしている。このあたりは赤土地帯で雨後にはよく滑り、人々は歩行はもちろん荷の運搬にも難渋した。それで江戸時代のいつの頃かに石畳の舗装がなされたそうだ。いちばん落ち葉の少なそうな所で、腹這いになって石畳の写真を撮った。藪蚊がぶんぶんうなりながらカメラを構える私に近寄ってくる。タオルを首の回りに巻きつけてガードしているから刺されることはないが、どうも落ち着かない。何度かシャッターを切ってまた石畳の道を歩き始めた。
 美しい道
 あらためてこんな道が埋もれていたのかと思う。もちろん、地元の人なら誰でも知っていて、当たり前だろう。埋もれてなんかいないよと言われそうだ。しかし、それでも、こんな立派な石畳の道が宇和にあることを知っている人は少ないのではないかという気がしてならない。
 ところで、である。この道は今でも充分に美しい。しかし、もし、竹箒かなんかで、ほんの少しでも落ち葉を掃きとってしまえば、とても見応えのある、美しい道に戻るのではないかと思う。かつては赤松の並木が続き、快い風が吹き抜ける道であったという。空ももう少し広がっていたのではないだろうか。ついでにコンクリートの側溝も自然構法で組み直せばよい。
 奈良の高畑の白毫寺裏から春日山中を経て柳生へ通じる旧柳生街道、瀧坂の道を歩いた人なら、この石畳の道にもそれと似たえもいわれぬ風情があることがわかってもらえると思う。柳生街道の瀧坂の道を登り切ってしばらく行くと忍辱山(にんにくせん)円成寺があり、鎌倉時代の彫刻家運慶が20歳の青年の頃に彫った大日如来が待っていてくれる。わが法華津坂はというと、なにものにもかえ難い宇和海の眺望があるではないか。そして、この道を長英が越え、蔵六が越え、おイネさんが越えたのだなどと想像をたくましくする楽しみもある。
 頂上
 石畳がつきると少し登って未舗装の林道に出る。左側はやや急な斜面になっているが一面に植林されている。ほぼ水平にまっすぐ峠の方向に続く道を5、6分も行くと今度は昔の舗装されたバス道につきあたる。バス道の先の林に続く道が見えるから、横切ってそのまま進む。踏み跡があり、空き缶が所々に落ちているから、これが旧道なのであろう。蜘蛛の巣や、蔦をストックで振り払いながら登っていく。しばらく行くとなんとなく行き詰まった。先に竹藪があり、隙間から明るい光が透けてくる。藪の向こうに崖が落ちていそうな雰囲気もあって、しばらくうろうろした。結局、面倒なので竹の生えた急斜面を光の通ってくる方にこわごわと進んでいった。すると、幸運にも突然、展望が開けた。眼下に宇和海が広がり、足元には右手のアンテナの鉄塔の方に登る工事用道路が見えた。傾斜はきついが下れぬほどではない。木の幹や枝につかまりながら工事用道路まで下った。左手を見ると、バス道がすぐ近くに見え、法華津峠頂上標高438メートルの錆びた看板が立っていた。旧道はバス道と工事用の道で切り崩され、バス道が旧道を辿って拡幅されたようである。バス道をほんの少し下ると、展望台のある公園に着いた。
 入口には、俳人酒井黙禅の「鶯や天嶮にして海の景」の句碑がある。紅葉の木の下を過ぎ、少し上がると入り組んだ海岸線と青い宇和海が見えた。
 山路越えて
 宇和海を一望する巌頭に、自然石を彫った「賛美歌404番」の歌碑がある。高所に弱い私などは、いつもこの碑につかまりながら崖っぷちに近づいて海を眺める。風が強い日などはとくにこの碑が支えになってありがたい。そのせいかこの碑の姿までもなんとなく温かく好ましいものに思える。歌詞は「山路こえて ひとりゆけど 主の手にすがれる 身はやすけし」(1番)。作詞者西村清雄は明治4年松山に生まれ、松山夜学校を創立するなど私学振興に尽した熱心なキリスト者だった。
 西村は、明治36年、メソジスト教会の布教活動のために宇和島に滞在していた松山城南高校の創立者ジャドソン女史の伝道を助けるために松山から宇和島への道を何度も往復した。そのときに越えた法華津峠の思い出がこの詩を生んだということで碑がここに建てられたのである。曲は当時西村が愛唱していたアーロン・ショパンという作曲家のゴールデン・ヒルという曲である。信仰の明澄さを日本の原風景によって、詩情豊かに歌い上げたこの賛美歌は多くの人々に愛唱された。1つ例をあげる。作家三浦綾子に「母」という長編がある。戦争の時代に築地警察署で、特高警察の手によって拷問の果てに殺された作家小林多喜二の母の一生を描いている。
 多喜二の母は晩年キリスト教に近づき、自分の葬式はキリスト教でしてもらおうと思うようになった。その多喜二の母がその死の日まで、愛唱していたのがこの「山路越えて」であったという。
 「うたってみれってか。……ちょっとご詠歌に似てるどもね。6番まであるけど、3番までうたっているうちに神様の所さ着くべさ。……わだしね、この歌大好きなの。それはね、わだしの生まれた所秋田県だべし。ほら、大館って、忠犬ハチコーで有名な所ね。あそこの奧の田舎がわだしの生まれた故郷だども、この歌うたうと、あの辺りが何とも目に浮かぶのね……あの辺りの山ば、イエスさまの手にすがって歩いて行く自分の姿が、はっきり見えるみたいで、この歌うたうと、何とも言えず安らかな気分になるんだ」
(『母』三浦綾子 角川書店)
 法華津峠で生まれた歌が、北の国を故郷とする人の思郷の心を呼び起こし、安らぎを与えてくれるというのだ。「松のあらし 谷のながれ みつかいの歌もかくやありなん」(2番)「峯の雪と こころきよく 雲なき空と むねは澄みぬ」(3番)
 私は、碑を抱えるようにして崖に近づき、変わらぬ宇和海の風景をもう1度眺めた後に吉田に向けてバス道を下った。

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1996-2012


石畳の道。落ち葉の下に、素朴ではあるが、実に堂々とした石畳の道が隠れている。
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宇和町伊賀上の旧道入口

法華津峠展望公園の賛美歌「山路越えて」の碑

快適な未舗装の林道

展望台下にある西村清雄のレリーフ