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第59回 大洲の名取洋之助
 
愛媛県大洲市 
 大洲市の旧市街を友人と歩いた。老舗の和菓子舗で、日本フォトジャーナリズムの先駆者名取洋之助の取材風景を撮影しためずらしい写真を見せてもらった。

 町歩き
 4月半ばの日曜日、友人を誘い、大洲の町歩きを楽しんだ。大洲城跡から大洲高校に入り、市役所の脇の道を抜けて柚木の古い町並みを歩いた。大洲神社の裏参道から臥龍山荘に出て、山荘の前の階段から肱川の川原に降りた。少し草の茂った道を川下に向かって歩き、武家屋敷の塀を模した高い堤防の途中につくられた門を通り抜けて志保町に入った。1時間以上歩いて、2人とも少しくたびれたので、赤煉瓦館の2階にある眺めのよい喫茶店に上がってコーヒーを飲んだ。ここはいつ来ても、静かで空いている。
 赤煉瓦館で少し休んだ後、すぐ近くの和菓子舗 五百原七福堂の前を通った。友人はこの七福堂の五百原さんご夫妻に仲人をしてもらったという縁がある。甘いものに目のない私は大好物のドラ焼きや大島羊羹などに引かれて、近くを通ったときには必ず立ち寄っている。ちょうど、来客を送って店の前に出ておられた五百原さんが「お茶でも飲んでお行きや」と声をかけてくれた。我々は誘われるままに、店先に腰をかけさせてもらった。お茶をいただきながら、友人の子どものことなどについての話題がしばらく続いた。話が途切れたときに、五百原さんが私が提げているカメラを見て、「それはいつものと違うじゃろう」と言われた。私はいつも、一眼レフを持ち歩いているが、その日は、旧知のカメラマンに譲ってもらったライカをぶらさげていた。今まで、まったく知らなかったが、五百原さんは、昔、写真が好きで、写真雑誌を購読していたこともあったそうだ。しかし、五百原さんが、言葉をついで「そういえば、ぼくは名取洋之助に写真を撮ってもろうたことがあるんよ」と言われたときには、ほんとうにびっくりした。
 『写真の読み方』
 今日、写真に特別の興味を持つ人の他に、名取洋之助の名を知っている人はそんなにいない。1910年生まれの名取が活躍したのは戦前から、52歳で亡くなった1962年までだから忘れられるのも無理はないが、名取は報道写真家、編集者、アート・ディレクターとして、日本人としては先駆的な活動をした人である。
 戦前に『ライフ』の契約写真家となった後、日本工房をおこし、1934年には、日本文化を海外に紹介するための雑誌『NIPPON』を創刊した。『NIPPON』は大判のグラフ誌で、英・独・仏・西の四カ国語で印刷された。今日から見ても編集や印刷の水準の高さに驚かされる画期的なものであった。
 大正11年生まれの五百原さんは名取がヒトラー政権下のベルリンオリンピックを取材したことを知っていたが、これも五百原さんが写真好きであったからだろう。五百原さんは、写真家の土門拳の妹さんが大洲に嫁いでいたことも教えてくれた。その土門拳やライフのカメラマンになった三木淳、デザイナーの亀倉雄策らを育てたのが名取であることを知る人はもう決して多くはないと思う。
 私は名取洋之助の名を、高校生の頃に愛読した岩波新書の『写真の読み方』の著者として知った。名著とされる『写真の読み方』に引き込まれたのは、「初めて写真を見る側に立って書かれた」という新しい視点のためばかりではない。それもあったろうが、高校生の私に完全に理解できたかどうかは怪しい。それよりも、『写真の読み方』がいわば名取の1代記になっていて、報道写真家として世に出るまでの名取の若き日の体験が生き生きと、率直に書かれていたからだと思う。私は『写真の読み方』を、いわば青春の書として読んだのである。甘えん坊で身勝手で、文学好き、成績劣等で札付きの不良少年であった青年が、ドイツに留学し、ひたすら好きなものにこだわって生きていく。やがて、生涯をかける仕事をみつけ、美しく聡明な年上のドイツ女性と出逢う。そして、報道写真家として成功を重ねるという生き方は、当時、不快な受験生活を送り、人並みの劣等感に苦しんでいた私にとって、1つの救いのように思えた。ほんとうに好きな仕事さえ見つければ、自由気ままな人生にも運命は平手打ちばかりをくらわせはしない……。まったくお門違いの読み方をしたおかげで、名取の名だけは記憶していた。
 大洲の名取洋之助
 五百原さんは、いったん奧に入って、古いモノクロの写真を持ってこられた。何枚かの写真の1枚を手にとってみると、すぐ近くの肱川の川原で鮎取りの投げ網を構えて立つ五百原さんとその背後に立って五百原さんを写している名取の姿があった。高い鼻と端整な顔だちが今とかわらない五百原さんは当時、30歳半ばを過ぎた頃だった。毛糸で編んだ半袖のセーターに足元が長靴になったサスペンダー付きのゴム製ズボンを履いている。名取は、上着の袖を腕まくりして、ズボンも膝の上までまくり上げている。右手でカメラをつかんで、川原にあぐらをかき笑顔を浮かべて合図をしている写真もあった。(上部参照)撮影がすんで談笑しているカットに写っているのは沼田大洲市長(当時)の息子さんや、市の産業課長をしていた五百原さんの叔父さんたちだ。しかし、もうみんな亡くなってしまったという。五百原さんは、おじさんに頼まれて得意の投網の技を披露したことは覚えているが、名取の取材風景を撮ったのが誰だったかはもうおぼえていないし、名取がその時に撮影した写真そのものが何に使われたのかもわからないという。
 若い頃のご夫婦の写真や、干し鮎を吊った座敷の写真も見せてもらった後、友人と私は東大洲に向かって歩き始めた。
 私はその夜、家に帰って岩波写真文庫の新風土記愛媛県1955(復刻ワイド版)を探してみた。名取が新風土記の編集責任者であったからもしやと思ったのである。やっとこさ見つけ出して、大洲市のところを開くと、網を打った瞬間の五百原さんの姿がそこにあった。昼間写真で見た名取が撮った写真であった。名取はやはり、岩波写真文庫の取材で大洲に来たのであった。私はうれしくなって久しぶりに名取の『写真の読み方』や『麦積山石窟』の写真集なども、本棚から探し出して、頁を繰った。なんだかなつかしい思いがした。そして、なるべく早い機会に五百原さんに名取がとらえた若き日の雄姿を見せに行きたいものだと思った。

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1996-2012



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五百原七福堂 和菓子舗
大洲市屈指の老舗。
焼き饅頭の残月や五色羊羹、どら焼きなどすべておいしい。

1995年頃の初夏。肱川川原の名取洋之助と五百原さん(後ろ向き)
名取りが提げているライカはバルナック型のライカIIICのようだ。
今はダムができて川原がせまくなり、鮎も少なくなった。対岸の道路は富士山の麓の如法寺への道で当時拡幅工事が終わったばかり。今は河岸に木が繁っている。



被写体に肉薄するポジティブな名取の撮影風景
名取はカメラを単純に、技術的な道具と考えて、格別にありがたがることはなかったが、写真を撮る者の伝えようとする精神の有無と質には潔癖だった。

右はその時に撮った写真が掲載された岩波写真文庫─新風土記愛媛県

干し鮎と若き日の五百原さん
当時は美味しい鮎がこんなにとれた。五百原家で。