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第91回 宇和島散歩
 
-朝のうどんと長英の家- 
 久しぶりに宇和島を1人で歩いた。近くに住んでいるのに、あるいは逆に近くに住んでいるからと言うべきであろうか、この2、3年、遠くから来た人を案内でもするのでなければ、ゆっくりと町を歩く機会がなかった。

 朝のうどんと長英の家
 おだやかな朝であった。7時過ぎ、昨秋、「文藝春秋」に『長英逃亡』の作家吉村昭が宇和島を紹介したときにもとりあげた朝のうどん「やまこうどん」に出掛けた。常連の人たちが自分でうどんの玉を茹で、薬味を好みで調えて食べるのをぼんやりと見ていたら、「1つ作ろうかね」と店の人が声を掛けてくれた。カウンターの中の丸椅子に腰をおろすと、顔見知りの人たちの朝の会話が耳に入る。「今日は今年初めてのゴミの収集日やった」。「暮れからのゴミがだいぶ出とったろうねえ」。「さっき、第1便が行ったから、もうすぐ2巡目が来る」。「こないだ、お母さんにおうたよ。」「うん、昨日、新年会で今日の4時まで飲んどった。これから会社じゃあー」。
 ご近所の人であろう。何人かの人が鍋やどんぶりを持って朝ご飯がわりにうどんを持ち帰っている。うどんはかき揚げとじゃこてんと蒲鉾がのっかっていて300円。いつ来ても変わらない、毎日繰り返し食べて飽きぬ味である。
 ひとこごちついて、店の前の小さな橋を渡り、ジブラルタル生命保険会社の先を右へ行くと道路の左手に小さな橋がある。その橋の上から汚れた辰野川の方を眺めるとすぐ左手に出窓のある古びた家が見える。原型を完全には留めていないが、幕末に高野長英が住んだ家である。宇和島市横新町51番地。筆頭家老桜田佐渡の別邸であったという。幕府のお尋ね者であった長英は変名で4人の扶持をもらい、4人の弟子にオランダ語文法や翻訳を教え、伊達家所蔵の蘭書の分類と整理を行い、「砲家必読」11冊を著したという。長英はこの家に若党1人、僕1人、婢1人と暮らしたそうだ。「婢」とされる女性はとよという名であったが、長英との間には子供が出来ていたという。
 引き返してこの家の表側にまわると、石碑が立っている。「瑞皐高野長英先生居住之地」。碑の揮毫は長英の親族、岩手水沢出身の後藤新平である。私は鶴見俊輔の『高野長英』(朝日選書)を愛読しているが、鶴見の母が後藤新平の娘であるから、鶴見も長英の血脈にある。鶴見の長英伝には、祖父の書いたこの碑については、一言もない。しかし、長英がこの家で教えた4人の宇和島の生徒のために書いた学則の全文を紹介している。長英の学則には「学問の道は、須く雫の石を穿つ如くせよ」「今それ西洋の書たるや、その文字蟹行、その音鴃舌にして、語脈の連なる所、文意の繋がる所、前後錯雑、紛々として規律なきが如く」に見えるが決してそうではない。天体の運行に比すべき厳密な法則がある。だから朝に習い、夕べに声に出して読み心をこめて学べばどんな本でも必ず理解できる。「自暴自棄は、則ち吾徒にあらざる也」とある。鶴見は、この学則を紹介しながら、長英が学問の中で「ロジック」、則ち広い意味での論理学、思索の方法論を最も高い位置に置いたことを感動的に記している。ただ西洋の事物を無批判に受け入れるのではなく、よく自分の頭で咀嚼しなければならないと長英は説いたのであった。
「笹まくら」の庭
 車に戻って伊達記念博物館へ。うす暗い館内に入り、政宗の書簡や着用した鎧を見る。秀吉の肖像画や家老の松根家の不気味な生首の旗指物もあった。松根家は漱石の弟子、俳人松根東洋城の家である。
 戦前は鶴がいたという偕楽園の跡を見て、天赦園に向かった。天赦園は幕末の慶応2年(1866年)宇和島7代藩主伊達宗紀(春山公)が、2代藩主宗利の浜御殿であった敷地の一部に隠居所として南御殿を建てた時に造園した庭園である。庭の名は仙台伊達藩の藩祖伊達政宗の漢詩に由来する。「馬上少年過 世平白髪多 残躯天赦所 不楽是如何」(馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し 残躯天の赦す所 これを楽しまずして如何せん)。故司馬遼太郎は、この庭に面して立つ旅館(今のステーキ店)に泊まった日の感興に誘われて政宗の小伝「馬上少年過ぐ」を書いた。私はかつて、岩城有作氏の導きで、この庭には政宗を追慕する春山公が自らの来し方を政宗の詩に仮託して作庭した景色があることを知った。天赦園の名を刻んだ碑は東北の駒の玩具の形をしている。庭の南側にある枯流れには群雄割拠を思わせる巨岩が配されており、その源流には独眼竜を思わせる石が据えられてもいた。この庭に来て藤や菖蒲の美しさを賞することに加えて、華やかではないが雄弁に語りかけてくる作庭者の声をきくことが新しい楽しみになった。
 ところが、何年かぶりに訪れた天赦園はずいぶん変わっていた。園内の道が広げられ、定規をあてたような極端に人工的な雰囲気の直線や曲線で敷かれた踏み石が目立ち、洋風のベンチが配されていた。岩城氏の受け売りで言うと、仏の象徴木である蘇鉄山がある庭の西側への通路に結界として架けてあった石の小橋も見えにくくなってしまった。新しく庭につけたされたものが目立ち、庭をつくった人の声が聞きとりにくくなってしまったのではないか。私の思い過ごしだろうか。
 まったく別の話であるが、この庭は丸谷才一の傑作長編小説『笹まくら』の重要な舞台の一つである。若き主人公は太平洋戦争下、徴兵忌避者として、逃亡の旅に全国を巡り歩く。そして、旅の途中に出会った恋人の女性の実家、宇和島の質屋で終戦を迎えるという筋立てになっている。戦後の日常に浸りきった主人公は、別れた昔の恋人の死に際して天赦園の由来となった政宗の漢詩をぼんやりと思い浮かべる。そして「残躯」という語をキーワードとして、戦争直後に恋人と別れた天赦園の情景を回想する。
 徴兵忌避者としてかさかさと鳴る笹の音にも不安を覚える逃亡の旅の終わりと主人公の戦後の始まりが宇和島のこの庭であった。宇和島で逃亡生活を送った長英との暗合も少しだけ感じる。
 庭を巡っているうちに、いささか落ち込んだ気分は、親切な天赦園の管理事務所の人が、茶室潜淵館の床の間の背後の障子を開いて、鬼ヶ城連山を一幅の絵のように見せてくれたことで少し晴れた。
 もう昼前。私は天赦園を出て、伊達記念館を通り過ぎ、かつて福沢諭吉の甥中上川彦次郎が教えた不棄英学校のあった御殿町界隈を抜けて、上り立ち門から城山に登った。

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1996-2012


辰野川と高野長英が暮らした家。宇和島市横新町(左手前出窓の家)
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朝のうどん、やまこうどん。

天赦園

街道の並木の松が残っている。

不棄英学校のあった界隈。宇和島市御殿町。

偕楽園跡

天赦園の碑。
政宗の漢詩
「馬上少年過」
にちなみ駒の形。

城山から宇和島湾を臨む。