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第122回 ドン・パウロ紀行
 
 宿毛・中村編
 土佐一條家の滅亡を描いた大原富枝の歴史小説『於雪』を読み、今春、一條家の4代目、キリシタン大名ドン・パウロとなった兼定の墓所がある戸島を訪ねた。今回はドン・パウロの故里ともいうべき土佐の中村や宿毛に行き、古戦場や兼定の愛妾で小説の主人公でもある於雪の生家の跡、一條家の御所の跡などを巡った。

源右衛門屋敷跡
 7月の中旬、だらだらと続いた梅雨が明けると、にわかに焼けるような暑さが襲ってきた。昼前に家を出て、国道56号線を宇和島から南下する。約1時間ほどで宿毛市街に入った。
 最初の目的地は、宿毛市平田である。平田には、お雪の生家である源右衛門屋敷の址や、土佐一條家初代となった一條房家が開基となった藤林寺もある。藤林寺は一條家の廟所になっている。場所は見当もつかないが、土地の人にたずねながら探すつもりで来た。
 宿毛市街から中村方面に少し行き、88ヶ所札所の延光寺という道標に従って、左手にあてずっぽうで道を折れ、寺の近くまで細い道を上がった。寺の前でお遍路さんと話している土地の人らしいおじいさんに源右衛門屋敷のことを聞いてみた。すぐに、それは、国道の反対側で元の公民館の手前の道を右に入ったところであると教えてくれる。そのおじいさんは、偶然、子供の頃にその近くで育った人であった。
 もう1度国道に出て、少し先の古い廃屋のような元公民館の建物の手前から、右手に登り、最初の角を左に入ると民家の手前の畑の中に「源右衛門屋敷跡 お雪の生家」という小さな碑とトタンで蓋をした井戸があった。
 大原の小説『於雪』には、杉垣根で囲まれた場所とあるが、下の国道から少し山すそに上がった広々とした高台で、畑の向こうは杉の木のような林に続いている。兼定が中村を追放された後、お雪は「平田御殿」を追われ、この場所にあった生家に押し込められた。小説には、屋敷の下を通る宿毛街道を、砂塵を巻き上げながら進む軍勢のどよめきを聞きながら孤独な日々を送るお雪が描かれている。

お雪入水の地
 道を戻り、お雪が入水した場所にあるという供養碑に向かう。国道を中村方向に2キロほど走ると、平田駅入口の案内標識が見えてくる。その信号を右折して中筋川の土手沿いの道に出ると、右手に広がった田圃の中に、黒ずんだ自然石の記念碑のようなものが見えた。右手の農道に入って、その碑の場所に行くと、脇にお雪入水の地と彫った小さな石柱があった。字体や形を見ると、源右衛門屋敷と同じ時期に建てられた新しいもののようだ。田圃は、入水する場所としては不適当のように思えるが、この辺りも圃場整備がされたように見えるので、はるか昔の風景は今とは同じでなかったのに違いない。
 お雪の父、源右衛門は平田の大百姓であった。、お雪は平田周辺の山々に狩猟に来た兼定に見初められたのだという。お雪に夢中になった兼定は、奢侈放蕩を戒める老臣の諌言に耳をかさず、平田の田圃を何反かつぶして宏壮な御所をつくらせ、そこにお雪を住まわせたそうだ。
 司馬遼太郎の『夏草の賦』には、長宗我部の謀略で兼定が家臣に欺かれて豊後に追われた時に、絶望したお雪が入水したとされているが、そちらが史実であれば、今、お雪の供養碑がある田圃が「平田御所」のあった場所であったかもしれないと思う。
 農道を山の方に向かって走り、山すそに見える藤林寺に参詣する。一條家の廟所は石段を上がった、日差しを閉ざされた林の中にあった。

渡川
 藤林寺から、国道にもどり、自動車専用道路を通って、旧中村市の四万十市に向かう。約30分ほどで、四万十川にかかる赤橋に着く。橋の袂に渡川古戦場の碑と解説板があった。長宗我部元親の謀略で豊後に追われた、ドン・パウロ一條兼定が舅である大友宗麟の援助を受け、伊予の国人達を糾合して、起死回生、失地回復の戦いを挑んだのがこの渡川である。
「両軍は四万十川を中に対峙していた。土佐と伊予の国境から源を発して、たくさんの支流を合わせ、幡多一円を屈曲して流れるこの大河は、中村のあたりでは、渡川と呼ばれて親しまれている。増水のときはこの川は海のように洋々としているが、今は川原がひろびろと現れている。
 国を奪われた「恥辱の者」として御所は、1年半ぶりに故里の町を対岸に望んでその岸に立っている。雪はそのことを思っている。しかし、川風にはためく白地に十字の異様な旗じるしの下に立って南蛮の神に祈りをささげる御所の御心の在りどころが彼女には、おぼつかなかった」
 兼定は、強引に、夜のうちに川を押し渡り、対岸の城塞の如き太平寺に入って一挙に中村を回復しようと試みる。ところが、「長宗我部軍は彼等の前に意外なほど脆く太平寺を明け渡した。1日中烈しい攻防が繰り返されて、長い夏の1日が暮れた。双方にたくさんの手負いを出し、川の両岸は血塗られ、うめき声に満ちた。明日は決戦だと誰もが覚悟するものがあった。」(引用は大原富枝『於雪より』)
 その夜半のことである。兼定の連合軍は、秘かに上流を迂回して背後に廻った長宗我部軍に、寝込みを襲われ、殲滅されてしまう。この敗戦で兼定の失地回復の望みは根絶やしにされた。
 日が傾き、少し和らいだ夏の日差しを受けて赤橋は色の深みを増している。対岸左手の為松公園の山の方や、対岸右手の太平寺の山との距離は、当時とそれほど変わっていないであろう。この、穏やかで静かな四万十川の風景の中で凄惨な戦いがあったことが信じられぬ思いがする。

化粧の井戸
 赤橋を渡り、為松公園のかつて、城砦のあった山の上にある城の形をした資料館に行く。一條家の展示を見るためであった。しかし、ちょうど大河ドラマの『功名が辻』にあわせて、中村山内家の特別展が開かれていたため、一條家の展示は房家の肖像画くらいしか見ることが出来なかった。
 山を下り、駐車場に車を預けて、一條神社に向かう。一條神社は中村御所の跡である。市街地の中の小森山という高台の上にある。 「中村の町は教房卿によって懐かしい京都の町々と同じく碁盤形につくられた。………御所は町のほぼ中心より少し南よりに、広大な厚い築地をめぐらし、立町筋に面して大門を持ち、反対側には日御門がそびえていた。寝殿を中心に七つの棟を持つ御殿は日御門に向かって建つ。御殿と御殿の間は、渡殿と庭園によってつながれ、泉水によって終わっていた。」(大原富枝『於雪』より)
 石段の中ほど左手の社務所の中庭に、かつて、御所の女官達が化粧に使ったという御影石を刳貫いた井戸があった。中村御所の昔を偲ばせるもので形の見えるものは、この井戸しかないそうだ。
 拝殿に上がり、参拝したのち、境内の端を歩いて、周囲の街並みを見渡してみる。年の移ろい、度重なった洪水、火災、地震で中村から一條家の昔を伝える風景は、自然の風景と町割のよすがくらいしかない。兼定が障子を開けて、初代房家卿遺愛の高楼から中村の町々を一望した昔は、いくつかの町名を残してはるか彼方に去った。
 ベンチに座って汗をぬぐいながら、休んでいたら、宮司さんが「どちらからですか」とにこやかな表情で、話しかけてきた。「宇和島からです」と答えると、神輿庫にはってあるポスターをゆびさして「めずらしいでしょう」という。8月の初めにこの神社で開かれる全国女郎蜘蛛相撲大会のポスターであった。
 そろそろ5時が近くなったので、石段を下り、駅の方向にある太平寺に急いだ。

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1996-2012


中村の一條神社に残る「御化粧の井戸」
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四万十川に架かる赤橋。この辺りが渡川古戦場。

土佐一條家の菩提寺宿毛市平田の藤林寺。

四万十川の古戦場。渡川の辺り。

宿毛市平田 お雪の供養碑。平田御所はこの辺りか。

中村一條神社

宿毛市平田藤林寺一條家廟所

宿毛市平田。源右衛門屋敷の跡

太平寺 雲居国師が少年時代を過ごした。