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第80回 三津浜散歩
 
 
 港町の三津を歩いた。古い町名を尋ね、路地に入ると、かつての賑わいを伝える蔵造りの商家や小さな洋館が所々に残っていた。

  港町
 私は三津の町歩きの手引きとするために、高校時代に日本史を教わった島津豊幸先生の『史論とエッセー絵馬と薫風』(創風社刊)を携えて来た。先生は三津に生まれ、ずっと三津に住んでおられる。この書におさめられた随筆「三津浜有情」や「消えた町名」など先生の書かれる「三津もの」には飄逸淡々とした味わいの中に、故郷に対する深い愛情がそこはかとなく感じられる。もちろん、町の歴史についての要所もきちんと押さえてある。ハードカバーだが新書版の大きさだからコートのポケットに入るのも好都合だった。少し長い引用をしてみよう。
「三津浜(現在松山市三津校区)は、藩政時代、御船手と問屋と漁師の住む港町であった。参勤交代に向かう藩主の乗船港であり、そのための御茶屋(別荘)が設けられ、幕末には台場(砲台も)も築かれていた。町筋も・松山百町、三津浜五十町・といわれ、そのなかで、広町・新町・心斉町などは船奉行所や町奉行所の置かれたお役所街であり、港に近い須先町・藤井町・三穂町などは問屋の店と土蔵が並ぶ商業地域であった。(戦後まであったこれらの町名は、今は全部なくなった。)明治維新を迎えて、近代化の波が及ぶにつれて、この港町としての様相はますます強まり、窪田廻船問屋や石崎汽船会社が設立され、瀬戸内海航路の貨客船が毎日のように寄港した。すでに近隣に知られていた魚市場も、……明治21(1888)年には直径18間のドーナッツ型の円形屋根の下に、敷石を敷き詰めた広大な売り場を建設した。」
 1月半ば、午後1時を過ぎた頃、三津浜港の防予汽船柳井行きフェリー乗り場に近い駐車場に車を預けた。桟橋に立つと、富士山に似た美しい形をした興後島が正面に見える。海を背にして、三津の渡しの方に向かって歩き始めると、右手に、石崎汽船の瀟洒なビルがある。愛媛県庁や萬翠荘などと同じく、建築家木子七郎の設計。大正14年の鉄筋コンクリート建築である。石崎汽船の手前、道路を挟んだ右角に建つ風格を感じさせる山谷運送部の建物は、一見鉄筋の様に見えるが、実は木造モルタル塗りの2階建てだ。細部の仕上げを見ると、大正末の左官の技術の高さに驚かされる。
 「忘れえぬ人々」
 かつて魚市場や生け簀があったのはこの辺りであるというが埋め立てられて、港湾整備が進んだせいか、今ひとつはっきりとわからない。最近、「三津の朝市」復活が伝えられるフェリー乗り場の手前のあたりも休日の時刻が時刻だけに人の姿はない。
 明治27年8月2日、小説家国木田独歩が三津浜の港に1泊した。大分県佐伯市での11ヶ月の教師生活を終え、山口県柳井に住む父母のもとに帰る途中、汽船便を待つためであった。独歩が後に雑誌『国民之友』の明治31年4月号に発表した短編『忘れえぬ人々』にそのときの印象を材にした一節がある。引用が続くが、少し引いてみよう。
 「僕は朝早く、旅宿を出て汽船が来るのは午後と聞いたのでこの港の浜や町を散歩した。奥に松山を控えているだけ、この港の繁盛は格別で、分けても朝は魚市が立つので魚市場の近傍の雑踏は非常なものであった。大空は名残なく晴れて朝日うららかに輝き、光るものには反射を与え、色あるものには光を添えて雑踏の光景をさらに賑々しくしていた。さけぶもの、呼ぶもの、笑声嬉々としてここに起これば歓呼怒罵乱れて彼方に湧くという有様で、売るもの買うもの、老若男女、何れも忙しそうに面白そうに嬉しそうに、駆けたり追ったりしている。」(国木田独歩「忘れえぬ人々」角川文庫昭和31年初版より仮名づかいを改めて引用)
 独歩は市場の喧噪を旅人の目で眺めながら、ぶらぶらと歩いているうちに、少し静かな町の一角に行き当たる。そこで思いがけず、店先に立って琵琶を奏でて謡う僧に出会う。独歩は、琵琶の音色と僧の謡う声とが、あたりの巷の光景と全く不調和のようでありながら、実は2つの異質なものの間にどこかで深い約束のようなものがあると感じる。その琵琶僧も独歩の「忘れえぬ人」の1人となるのである。
 須先町
 私は、生気あふれる真夏の朝の魚市場の様子を想像しながら先を急いだ。島津先生の随筆に昔は三津浜の町全体が州で、その先を埋め立てた須先という町があり、江戸後期には頼山陽や画家の田能村竹田が来遊した豪商の別荘もあったとある。明治の初めには大店が軒を並べていたそうだから、その須先町には昔の面影があるのではないかと思った。水路に沿ってしばらく歩くと、堤防の脇に小魚を干しているおばあさんと自転車を引いたおじいさんが立ち話をしていた。須先町はどのあたりだったのでしょうかと尋ねてみると、少し先にある市営の「渡し」のあたりだという。おじいさんは山口県から移り住んで30年経つのだが、それより昔のことはあまり知らないのだと言った。渡しの前にあるお寺の前の路地を右に入った。少し先の右手に漆喰で塗り籠めた商家があり、その先の左手にも連子の出窓がある美しい商家らしい建物がある。写真を撮っていたら、その商家の向かいにある陶器を商う店から、毛糸の帽子を被ったおじいさんが出て来られた。おじいさんに尋ねると、この路地がまさしく須先町の本通りであったそうだ。山陽や竹田が来遊した豪商の別荘について聞くと「竹田さんいうたら、それは、もうずっと昔も昔、大昔のことじゃなあ。わしはこの辺では、人も変わってしもうて、もう1番古うなったんじゃけど、ちょっと思いつかんなあ。それはあんた、島津先生にでも聞かなわからん」。おじいさんは、さきほどの塗り籠めの建物が築百年くらいは経っているということなどを教えてくれ、先生が子供の頃に住んでいたのはあそこの家のあたりじゃと、指を差して示してくれた。
 おじいさんと別れて、その路地から細長いアーケードの方に向かって歩いた。途中で何軒もの豪壮な蔵や塗り籠めの商家に出会った。医院の洋館もあった。旧桜町の角に建つ遠藤醤油店など、すばらしい蔵や町屋の連なりを見ながら三津浜図書館に出た。前の路地を住吉町の方に歩いていたら、和風の住宅の先にどこか見覚えのあるビルがある。表札を読んだら、中学高校の友人の亡くなった父上が開業していた医院の建物だった。上階が住居になっていて、何度も泊めてもらった。その友人も医者になり、今は広島の大学の先生になって内科を教えている。その頃は夏祭りの花火を見たり、潮の香りを嗅ぎながら、町を歩きまわったりしていたのに違いないが、町並を懐かしい思いで見つめて歩くこととは無縁な年頃であった。町にも活気があったし、私たちも前しか見えない、普通の子供だった。
 三津の町は変わったし、これからもどんどん変わっていく気配が見える。「日本近代建築総覧 各地に遺る明治大正昭和の建物」(日本建築学会編 技法堂出版)のリストに挙げられた三津の建築にも姿を消したものが少なくない。子規や虚子が旅立ち、漱石が訪れ、去っていった三津を歩くなら、今のうちだとつくづく思う。

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1996-2012


松山市三津
旧桜町の遠藤醤油店醤油蔵。江戸後期の建築。
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石崎汽船(左)は鉄筋コンクリート大正14年。設計木子七郎。右手前は木造モルタルの山谷運送部の建物。大正末。

三津アーケードの中の魚屋さん。

旧医院の建物。大正末か。

旧三穂町界隈。

三津アーケード商店街入口にある塗籠の豪壮な建築。

旧桜町から三穂町、栄町と続く。

旧須先町の塗籠の家。築100年は経っている。

旧栄町、鉄斎が名付けたという、二名煮の店内。
カウンター下に古い煙草の品書きがあった。

渡しに向かって歩く。

柳井行フェリー乗場近く。朝市が復活するという。