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- 満願寺の薬師堂 -  
第143回 藤岡蔵六の故郷
宇和島市津島町岩淵
 
 3月17日、私がまとめた「岩松文学散歩」という小冊子をもって、20人ほどの人たちと一緒に獅子文六が戦後の二年を暮らした岩松の町を歩いた。散会する時に、参加された中のお一人、川口一夫さんが、『二重柿の里』というご著書を下さった。中に、芥川龍之介の親友であった藤岡蔵六という哲学者に関する一章があった。

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岩松で

- 蔵六生家近くの神社 -

 川口さんは、長く大阪で高校の先生をされていた後、津島町に帰郷された方である。岩松から宿毛街道を北に上がった岩淵の御出身であった。いただいた御本には、ご自身が続けてこられた平和活動や憲法九条を守る会のことから、海外への旅の話、短歌や童話などの作品も見えた。
 川口さんは、本を開かれて「哲学者藤岡蔵六さんのこと」という章を示され、私に藤岡という人を知っているかどうかを聞かれた。私は全く知らない名前であった。岩松の町歩きが終って、その日は、倉敷にとんぼ返りをした。倉敷での最後の仕事で2日後から、東京に10日ほど出かける予定があった。実家の吉田を素通りして、岩松まで開通した高速道路を走り、瀬戸大橋を渡って、アパートに着いたのは午後八時過ぎだった。少し休んでベッドに寝ころび、いただいた本を開いた。藤岡蔵六のことは全く知らなかったが、実は川口さんの名前には記憶があった。お兄さんの川口丑勝さんが岩松魚市場の顧問をされていた時に、大畑旅館の大畑さんにくっついて何度か朝の魚市場を見せてもらったことがある。椅子に腰をかけてセリの様子を見守る丑勝さんには元締めのような風格があった。ある時、「文六は嫌いよ」と顔をしかめ、口をとんがらせて言う丑勝さんと話をしていた時に、「わしの弟の一夫が大阪の北野高校で先生をしとる。「大鰻の小太郎」という本を出しとるからそれを読むように」と言われたことがあった。その本は、大畑旅館のロビーの本棚に置いてあったので、目を通した記憶があった。いただいた『二重柿の里』の短歌のところに「たのしみは川口の丑兄が六宝を舌鼓打ちて食する時」というのがあった。丑勝さんの風貌を思い出しながら、頁をめくり「藤岡蔵六のこと」を読んでみた。同郷の岩淵出身である藤岡蔵六に対する尊敬と同情の溢れた文章で、藤岡蔵六の生涯について一通りの知識を得ることができた。東京から帰ったら自分でも少し調べてみようと思った。

藤岡蔵六という人

- 旧岩淵郵便局 -

  藤岡蔵六について、川口さんの書かれたものから知り得たことを書いておきたい。
藤岡蔵六は明治24年(1891)年2月14日に岩淵の医師藤岡春叢の子として生まれた。春叢は宇和島藩医富沢礼中の弟子で、漢方と蘭方の医術を学び、儒学を篠崎小竹に習った。いわゆる儒医である。明治になって上京し、官立東京医学校で西洋医学を修めた後、郷里の岩淵で開業した。
 蔵六は、岩松高等小学校で学び、そのときの校長が郷土史家の兵藤賢一(宇和島の高野長英居住地に後藤新平が揮毫した記念碑の文を撰した人)、教頭が富永寅吉(獅子文六の妻の父であろうと思うが確認はしていない)であった。宇和島中学から一高に進み、一高では同級生に芥川や恒藤恭、久米正雄、漱石の女婿となった松岡譲、東洋文庫の発展に尽した石田幹之助らがいた。当時の校長は新渡戸稲造である。東京帝国大学文学部哲学科へ入学し、同科ではケーベル博士の最後の哲学の講義を聞いた学生の一人だったという。漱石が「ケーベル先生」に「文科大學へ行つて、此處で一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の學生が九十人迄は、數ある日本の教授の名を口にする前に、まづフォン・ケーベルと答へるだらう。」と書いた人である。
 大正5年に哲学科を首席で卒業して、大正9年まで大学院で学んだ。6年から10年までは四年間哲学研究室副手に任ぜられるほど、井上哲次郎、桑木厳翼両教授に学才と人柄を認められた。大正十年には多くの先輩を差し置いて文部省在外研究員としてドイツフライブルグ大学に留学し、米、仏をも視察して大正13年に帰国した。20代後半から30歳にかけ「カントの純粋理性批判における時間論」はじめ幾多の論文を哲学雑誌に発表し、新カント学派のコーエンの「純粋認識の論理学」の訳述を岩波書店から刊行したという。
 私はこの本を取り寄せて見ていないし、読んだところですんなりと理解は出来ないだろうと思う。しかし、古書では簡単に手に入るのでそのうちに取り寄せてみよう。川口さんは全てに目を通されており、新カント学派はドイツ観念論の復興をめざした「新理想主義」の哲学として、西田幾多郎の著作とともに当時の青年たちに人気が高かったことを書かれている。

藤岡事件のこと
 ここで、川口さんも引かれている芥川龍之介の「学校友だち」という随筆から、親友芥川の藤岡評を摘録してみよう。
「藤岡蔵六 これも高等学校以来の友だちなり。東京の文科大学を出、今は法政大学か何かに在り。ぼくの友達も多けれど藤岡くらい損をした男は先ず他にあらざるべし。藤岡の常に損をするのは藤岡が悪しき訳にあらず。ただ藤岡の理想主義者たるためなり。それも藤岡の祖父に当る人は川ばたに蹲れる乞食を見、さぞ寒かろうと思いしあまり、自分も襦袢一枚になりて厳冬の縁側に座り込みしため、とうとう風邪を引いて死にたりと言えば、先祖代々猛烈なる理想主義者と心得べし。この理想主義者を理解せざる世間は藤岡を目して辣腕家と做す。滑稽を通り越して気の毒なり。天下の人は何と言うとも、藤岡は断じて辣腕家にあらず。欺し易く、欺かされやすき正直一図の学者なり。僕の言を疑うものは、試みにこう考えてみるべし

- 満願寺の二重柿 -

 芥川龍之介は才人なり。藤岡蔵六は芥川龍之介の旧友なり。その旧友に十五年来欺されている才人ありや否や。(藤岡蔵六の先輩知己は大抵哲学者や何かなるべければ、三段論法を用ふること斯くの如し。)」藤岡と芥川には、真情のこもった多くの書簡の応酬があった。芥川の藤岡宛の書簡は全集に掲載されている。
 恩師の期待を一身に受け、藤岡は東北帝国大学教授の肩書きを貰ってドイツに留学したが、帰国後は、その実力にふさわしい、恵まれた道を歩むことはなかった。先ず、東北帝国大学へは赴任できなかった。東北帝国大学教授の職を他人に奪われたのは、藤岡の「理想主義」への反感と恵まれた研究環境を妬視した誤解が一部にあった為と言われている。中でも、和辻哲郎の藤岡が岩波から出したコーエンの翻訳への激しい攻撃は「藤岡事件」として『出隆自伝』にも書かれ、『蝸牛の角』という保田与重郎の小説にも描かれている。ドイツに留学中の藤岡の反論は一度届いたが、和辻のものが雑誌にのってから四ヶ月後の掲載であり、謙虚に自著の欠陥を認めた部分が、翌月には、和辻の絶好の餌食となった。さらに、その和辻に対する反論はさらに4ケ月先ということで、なんの効果もなかったそうだ。時が経って、この「論争」の精細な検証を和辻の愛弟子の吉沢伝三郎が行っているという。和辻に理のあることを明らかにしていると判定する人もいるが、愛弟子の検証はいかがなものかとも思う。出隆の自伝に書き留められた醜い人身攻撃に近い「藤岡の翻訳のやり方はずるい」とする和辻自身の情けない弁解もあり、後輩の前途を閉ざしたことは、名を為した和辻にとっても不愉快な事件であったことだろう。
 漱石を巡る交遊について、和辻は芥川の年代の人々に対する違和感を強く表した文章を残している。西播磨の農村の医師の子に生まれた和辻にとって、同じく医師の子であった蔵六はどううつっていたのだろう。出自に共通点が有るだけに年下の蔵六の、真面目さ、愚直さ、不器用さを誤解し、無類の勉強家を貫く生き方を含めて、虫が好かなかったのではないかとも思う。私は和辻の随筆集かなにかで、若い時代、漱石が亡くなってすぐの頃であったろうか、「漱石先生」とよびかけるような謙恭おくあたわざる筆致のものと、一家を成した後に「漱石」と突き放して書いた調子のものを二つ続けて読んだことがある。その時に感じたスタイルの変化の器用さというか、冷たさは藤岡蔵六の持ち合わせぬものであったことだけは間違いない。
 民俗学の巨人柳田国男は和辻と同じ播磨の儒医の家系に生まれた。その柳田国男について、岡茂雄の『本屋風情』を読むと、柳田の学識を尊敬し、時に見せる温情に浴した岡がなお、人として、柳田の背信的食言、酷薄無情な仕打ちを許さず、「『人類学・民俗学講座』流産始末記」や「よくぞ生まれた『雪国の春』」に煮え湯を飲まされたエピソードを書き残したことを想起する。人と人との出会いは複雑で、難しい。哲学論争らしきものの帰趨については、私などでは、直訳の翻訳で読んでも難解なコーエンのものについてはわからないとしかいいようがない。
 藤岡は、その事件の後は、新設の甲南高校教授となって、多くの哲学徒を育て、傍ら岩波哲学大辞典の執筆や講演をし、大正末期は吉田熊二団長の支那視察団に加わったりしながら静かで落ち着いた生活を送っていた。ところが、突然、難病にかかり最晩年まで、二十年近くの病床生活を強いられ、昭和24年に亡くなったという。私は、和辻の事件そのものは、藤岡にとってそれほどの打撃ではなかったと想像する。しかし、この突然の病気だけは「悲劇」であったと思う。梨をむいていて手のしびれを感じたのが発端だったというこの病気は、藤岡から哲学者として大成する時間を奪った。

『父と子』

- 生家近くの神社の巨木 -

 この後、藤岡が残すことが出来た著作は少なく、病が小康を得た最晩年に愛する故郷と父や家族の思い出を綴った『父と子』という回想録の原稿を書き上げることが出来ただけであったという。『父と子』は蔵六の長男である藤岡真佐夫氏により私家版で昭和56年に上梓されている。
 私は、岩松公民館の図書館にある『父と子』を借り出して読んでみた。なつかしさとやさしさの溢れた本であった。父母とやさしい姉たちに囲まれ、自然の豊かな岩淵で、おおらかに育つ幼少期の記憶が昨日の日のように生き生きと、細やかに再現されている。季節の行事や近くの満願寺のことなどもくわしく書かれていて、藤岡が故郷の思い出を心の奥処にたいせつにしまって都会の暮らしを送っていたことがよくわかる。西田幾多郎が幼少期から金沢時代を回想して書いた随筆などもそうであるが、素直な読みやすい文章だ。難解な表現はどこにもなく、愛する父母や姉たちの様子や故郷のすがたが彷彿とする文章である。
 蔵六は、一高入学で蔵六が上京する際に「早く帰って来てお父さんを楽にしてあげる」という蔵六に向かって、父親の春叢が「もう遅い」とぽつりと言ったことを書きとめている。高齢で蔵六を得た為、蔵六の栄達を生きてみることは出来ないと思ったのであろうが、蔵六のさびしさはいかばかりのものであったろうか。春叢は一高時代の終わりに亡くなった。『父と子』は大正2年の父の死を書き終えた後、筆がおかれている。蔵六が亡くなったのは昭和24年12月21日、59才であった。長い病にたまさかの小康が訪れ、蔵六が故郷の思い出を克明に綴った『父と子』を残すことが出来たことは、故郷の人にとって幸いなことであったと思う。『父と子』は岩松の子供たちに、昔の故郷がどのようであったかを伝える読み物としてもとてもふさわしいものである。
『父と子』を出版された藤岡真佐夫氏はアジア開発銀行第4代総裁を務められた方で、平成10年には「父母の思い出とともに」をやはり、私家版で出しておられるそうだが、私はまだ拝見出来ていない。川口氏によると父蔵六についての詳細な記述があるということである。

岩淵へ

- 満願寺の藤岡家の墓 -

 『父と子』を読んだ明くる日は快晴であった。私は岩淵に出かけてみることにした。岩松の終点で高速道路を降り、高田の交差点から宿毛への県道に入った。いつもサイクリングで走っている道で、藤岡家の墓所のある岩淵の満願寺も何度か訪れたことがあった。五分か六分、岩松川にそって遡ると岩淵に着いた。川口さんの魚屋さんから右に入ると昔の木造の郵便局の建物があった。このあたりが集落の中心で、郵便局の先が川口一夫さんのお宅であった。お留守のようであった。蔵六の生まれた家もこのあたりであったという。川口さんのお宅の先に神社の参道があり、石造の常夜灯があった。車を停めて神社の参道に入った。ご神木であろうか、つきあたりの石段の右手に巨木が大きな木陰をつくっていた。参道を引き返し満願寺に向かった。この少し登りかげんの道を幼い蔵六達が、満願寺の方へ駆けて行った様子が思われるような雰囲気が残った界隈である。満願寺は県道に出てすぐ先の山裾にある。本堂の脇から境内に入ると、弘法大師の伝説で有名な二重柿が若葉を繁らせていた。右手の石段を上がって薬師堂に参り、引き返して本堂の脇の裏手の墓所に向かった。藤岡家の墓所の場所は知らなかったが、川口さんのお家のお墓のすぐ側ということは本に書いてあつた。下から墓石を見ながら歩いていたら、川口さんのお兄さんの丑勝さんの名前が見えるお墓があった。その手前の小さな一角に、一際古い墓石があって、春叢の文字が見えた。『父と子』に真佐夫氏が蔵六が故郷の墓に入ることを望んだことが書かれていた。この墓の改修に岩淵を訪れられた時、真佐夫氏は春叢の墓の脇に蔵六の墓標を立てて回向を手向けられたという。墓所に一礼して境内に戻った時、お寺の方が本堂から声を掛けられた。住職の御母堂であった。藤岡家の墓所に参った話をしたところ、「先日も、『父と子』を読まれたといって、どこかの大学の女の先生がお参りに見えました。」と言われる。御母堂も『父と子』を読まれたそうで、「あれはほんとうにいい本です」と言われ、その大学の先生が五木寛之の『大河の一滴』よりよほどいいと言われたとも話された。私は『大河の一滴』を知らない。
 しかし、蔵六の『父と子』が稀有の純粋さを保った文章であり、故郷の人々の心にしみいるものであることは確かことであるとあらためて思った。お孫さんを見ておられる御母堂に時間をとらせてしまったことをわびて、満願寺を後にした。岩松川の両側はもう田植が終っていて、高知に続く山並みには新緑が雲のように湧きたっていた。

「尾形了斎覚書」のこと

- 田植の終った清満村 -


 蔵六の一高時代の親友、芥川龍之介に『尾形了斎覚書』という初期のキリシタン小説がある。その覚書を書いた医師が伊予國宇和郡の医師という設定であったことがずっと気になっていた。今回の川口さんのご教示ですぐにこの小説のことが頭に浮んだ。病に侵された娘を救う為に母が棄教を強いられるという話で、棄教の証に三度、十字架を踏まされるというところがあり、イエスを三度知らないといった聖ペテロの逸話を想起させるが、なぜ宇和郡なのだろうとずっと気にかかっていた。安直な話だが、蔵六の関係ではないかと思ったわけである。東京の出張から帰って、倉敷の暮らしを片付けながら、川口さんがあげておられた参考文献から、とりあえず、芥川の研究家として知られる関口安義氏の「非運の哲学者 評伝藤岡蔵六」というのを取り寄せて読んでみた。インターネットで韓国の芥川研究者が藤岡蔵六と「尾形了斎覚書」の関係について書いた論文が見つかった。失礼とは思ったが文教大学の関口氏に電話をかけてみたところ、韓国の研究者は氏が指導した学生で「芥川龍之介研究年誌第2号」に蔵六とその小説について関口氏が書かれているとのご教示を得たので取り寄せて読んでみた。結論を言うと具体的に藤岡蔵六が渡した資料が見つかっているわけではないが、伊予が舞台となったのは蔵六の故郷であることに間違いはないと思われる。小説自体については、私は聖ペテロの挿話、チェーホフの『大学生』などを思い浮かべていた。従って小説の材料となったエピソードにさほどの関心はないが、蔵六のことを知った時は、この小説の話柄について、キリシタン大名ドン・パウロ終焉の地である宇和海にある戸島の庄屋田中家の14代田中哲太郎のことを思い浮かべた。
 田中哲太郎は、宇和島中学から第三高等学校、東京帝国大学経済学部を卒業して帰郷、戸島の農地を小作人に解放し、1923年4月6日宇和島カソリック教会ドミニコ会イシドロ・アダネス師により受洗した。三高時代の仏人家庭教師によって聖書にふれたことが機縁となったという。13代庄屋の父も亡くなる前に受洗したが、葬儀は仏式で行われたため、哲太郎は葬儀に出席出来ず、喪主は弟がつとめた。その後、1934年1月17日の朝、哲太郎の長男健一をのぞく3児が突然疫痢で死去するという非運に会う。親戚、知人に「耶蘇になったのでバチがあたったという陰口がささやかれていたという。哲太郎は、それでも、疲労困憊して悲嘆にくれる妻静子を守り、信仰を堅持した。哲太郎は1937年9月24日に「教皇勲章」を授与され、後に息子の健一はバチカンに留学し司教となった。
 しかし、蔵六と哲太郎が出合った可能性は全くない。生年の違いをあたってすぐにわかったことである。宇和島中学在学中にも以後にもそれはありえないことであった。
 蔵六が中学時代に通ったパプテストの教会は宇和島にあり、そこで得た挿話を芥川に知らせたものであろうか。

藤岡蔵六と武内潔真

- 武内と藤岡が高等小学校に通った岩松の町 -
岩松橋解体中の風景。明治時代小学校は岩松川の左岸にあり、運動場は河原だった。
『父と子』を読んで今一つ知り得たことがある。岩松高等小学校から宇和島中学に進み一高、東大と藤岡蔵六と同じコースを先行した、大原美術館初代館長武内潔真と蔵六に交遊があったということである。昨年、倉敷市の芸術文化の街づくりに大きな貢献を果たした二人の南予人三橋玉見と武内潔真を顕彰する小さな催しを、二人が少年時代を過した津島町で開いた。往時茫々で二人の南予の足跡はなかなか明らかに出来なかった。ところが、『父と子』に蔵六が郷党の先輩、武内潔真の一高時代の姿を敬意をもって書き留めていたのである。一応三人の生年を上げると、三橋玉見 明治15年11月26日生まれ、武内潔真 明治21年5月16日生まれ、藤岡蔵六明治24年(1891)年2月14日となる。武内と藤岡蔵六は小学校から大学までを通じて、ともに過ごした時間を持った可能性がある。短い文章なので全文を引く。
「私と同郷の先輩に武内潔真という人があった。宇和島中学校を卒業して一高工科へ首席で入学した程の秀才であったが、工科にも拘わらず文学を愛好し、芸術や哲学を非常に尊敬していた。
朝日新聞に連載される漱石の小説は、読んだ後切りとって鄭重に保存していた。
 一高で京大から桑木厳翼博士と上田敏博士とを招聘して大講演会を催した時、上田博士は、一国の文化を向上させる為には吾々は天才を尊重し之を保護し援助しなければならぬ、これ凡才たる一般大衆に課せられた文化的責務である、と講演された。此の講演を聞いた後で、武内さんは、「僕たちは君なんかを援助すれば宜いのだ」と言われた。私は此の言葉を聞いて一寸意外に思った。秀才の武内さんが凡才の私共を援助するのは、上田博士の所説の逆であって意味をなさない。併し斯う言った武内さんの言葉の裏には、一般に文学や哲学なるものに対する彼の尊敬的態度が示されてゐるのであって、特に私(共)を指しているのではない、そう考え直して見た時彼の態度は立派である。斯様な人々が多くなればなるほど、一国の文化は向上すると思った。」
(藤岡蔵六著『父と子』昭和23年 102「文化の向上」全文)
 武内の切り抜いた漱石の小説は、朝日に連載された『彼岸過迄』とか『行人』などであろうか。
もし、藤岡が健康を保っていれば、武内とのその後の往来もいささかはあったかもしれない。しかし、電気工学を専門としながら、哲学や芸術、文学に対して学生時代から敬意をもって接していた武内の姿を、蔵六が律儀に、晩年まで記憶していたことは奇跡のように思われる。
 それこそ、話柄が動いてしまったが、藤岡蔵六もまた南予の輩出した忘れてはならない人であろうと思う。私が知らぬだけで、実際には、多くの人が蔵六のことを知っていたのである。今回図らずも獅子文六のおかげて川口さんのご教示に接することが出来たのはほんとうにありがたいことであった。

藤岡蔵六の故郷 追記に続く。

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