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第104回 稱名寺(しょうみょうじ)再訪
~範頼の墓と子規と漱石~ 
伊予市上吾川十合 
 7年前の2月、初めて伊予市上吾川の稱名寺や寺域にある鎌倉神社と源範頼の墓に参った。子規や漱石がおとずれ、句碑があることを知ったからであった。久しぶりに、再訪した。

子規と範頼の墓
 伊予から砥部に抜ける県道を走り、稱名寺という矢印のついた案内板に従い、ゴム工場の所から右に折れた。小さな祠と稱名寺参道という石柱がある分岐を右に行くと稱名寺の参道だ。田圃の中の道を登っていくと、右手に白い波が細かく立った海が広がり、興居島や釣島の向こうに寒そうな雲が流れているのが見えた。稱名寺の墓地の手前に車を停めた。左手にある池の畔のこんもりした林の中に鎌倉神社の社殿があり、範頼の墓はその背後にある。池の堤の上を通って鎌倉神社に上がった。
 子規や漱石が訪れた墓の主、源範頼は、源義朝の第6子で、遠江国(いまの静岡県西部)蒲御厨(かばのみくりや)で生まれたことから蒲殿(かばどの)とか蒲冠者(かばのかじゃ)などと呼ばれた。異母弟の義経とともに木曽義仲を追討し、福原に平家を破り、平家追討の遠征軍を率いて九州に進み、平家滅亡後も九州にとどまって戦後処理をしていたが、源氏の覇権が確立した後、頼朝によって伊豆の修善寺に流され、処断されたという。その範頼の墓が、どうしたわけか、鎌倉から遠く離れた伊予の地にあった。
 大学予備門に在学中の正岡子規は、明治20年の夏に帰省した際、中学時代からの親しい友人武市庫太を現在の松前町永田に訪ねた。その時に、子規は武智庫太と2人で伊予市上吾川の範頼の墓に詣で、稱名寺に上って門前で小憩した。その時に子規が作った「範頼公の墓に謁(えつ)す 墓は予州伊予郡吾川村山腹の稱名寺(しょうみょうじ)の前にあり」という前書きがある漢詩を書き下し文で掲げてみよう。
 万木(ばんぼく)天にまじわりて、白雲わたり、山逕(※山道のこと)蕭瑟(しょうしつ)(※秋風が吹いて物寂しい様子)、昼も露を凝(こ)らせり、苔、碑を蝕(むしばみて)みて余す7字の書、蒲冠者範頼公墓と/
 かつて墳上
(※墓の上)の松を伐る人あり、全村悪疫ありて みのりも豊かならず、これより相伝えて神罰を説き、ただ鎌倉公と称して尊崇す/
 大洲の太守山刹(さんさつ)
(※山寺、稱名寺のこと)に命じ、とこしえに樹を繁らせ、草を(めばえ)させず、今に祭祀して豆(とうへん)(※高坏(たかつき)のこと。供物を盛る祭器)をすすむ、年の9月、日の念八(にじゅうはち)/
 君見ずや、鎌府(けんぷ)
(※鎌倉幕府のこと)鬼武(※源頼朝。幼名を鬼武者といった)の塋(えい)(※墓)、風雨蕭々(しゅくしゅく)(※静かな様子)草青々たり、いずれぞ南海吾川の地、香火絶えずして威霊灼たるに/
 拝跪(はいき)して古(いにしえ)をを吊えば、人境遠く碧池(へきち)水明らかに山色(さんしょく)冷(きよ)し、幽禽啼(ゆうきんな)きやみて山寂寥(せきりょう)、地に満つる松籟(しょうらい)、龍影動く/

 7年前と変らず、境内はきれいに掃き清められていて、範頼の墓や森に点在する五輪の塔にも供物が供えてあった。20歳の子規がつくった漢詩に詠まれた通り、範頼の墓は今も「鎌倉さん」と土地の人々に呼ばれて、手厚く祀られている。墓の周囲の景色もほとんど変っていない。鳥の声が止むと、辺りには寂寥の気が満ち、地を覆った松ぼっくりがまるで龍の鱗のように思えてきたという若い子規の結句が腑に落ちる。
 子規は、明治23年の「範頼の墓」(『筆まかせ』第3編所収)という短い文章に「範頼とは何の縁もなき四国にその墓あるは必ず多少の原由あるべし。義経さえ衣川に死せずして蝦夷へ行きしといえば、範頼も修善寺に死せずして四国へ逃げ来たりしかも知れず。あるいは、さなくば範頼の従臣がその首などを持ち来たりて、ここに葬りしものかも分からず。歴史に志す人は注意したまえ。砂の中に金があります」とも書いている。

漱石の句碑
 松山中学の英語教師夏目金之助は、明治28年の冬か晩秋に、松山から約3里、12キロの道のりを歩いてこの地を訪れた。夏目金之助、漱石がこの散策を思いついたのが、親友子規の筆まかせの文章や、漢詩などを読んだせいか、あるいは、東京に旅立つ前の子規から吟行をすすめられたものかどうかは明らかではない。しかし、いずれにしても、漱石が範頼の墓に参ったのは、子規の影響によるものであることを疑うことは難しい。
 範頼の墓に謁して二句
 蒲殿のいよいよ悲し枯尾花
 木枯らしや冠者の墓撲つ松落葉

鎌倉神社の社殿左手前にある句碑に刻まれた漱石の句である。漱石が「範頼の墓」を訪れたのは晩秋の風の強い、暗い天気の日であったろう。兄に殺された範頼の身の上と、寂しい池畔の林に点在する従臣たちの墓といわれる五輪の塔は、松山で孤独をかこっていた漱石の心を強く動かしたに違いない。
 句碑にある漱石の句は、明治28年12月18日に漱石が、東京根岸にあった子規に添削を乞うて送った句稿の中に見えるものである。その句稿61句の中には、稱名寺を詠んだ「山寺や冬の日残る海の上」の句や鎌倉神社の森を詠んだ「古池や首塚ありて時雨ふる」の句も見える。時も季節も同じではないが、漱石の山寺の句と、明治20年に若い子規が作ったもう1つの漢詩の一節「登臨沃野平 山寺低残日」(登臨すれば 沃野平らかにして 山寺は残日を低めたり)、そして、稱名寺にのぼる参道脇に立つ子規の句碑にある明治29年春の作「夕栄の五色の濱をかすみけり」がそれぞれに、こだましあっているのは明らかであろう。

奇縁
 子規、漱石と範頼の墓の縁は深い。偶然には違いないが、2人は、伊豆修善寺にあるもう1つの範頼の墓にも詣でて、それぞれに句を残しているのである。
 先ず、子規は、明治25年10月15日、井上明久さんが本誌の連載「東京の子規」第46回(本号7ページに掲載)でとり上げられた「旅の旅の旅」の紀行の際に、伊豆修善寺の範頼の墓に笠を手向けて「鶺鴒(せきれい)よこの笠叩(たた)くことなかれ」という句をつくった。
 一方、漱石は明治43年9月、修善寺で大患の療養中に「範頼の墓濡るるらん秋の雨」、「秋草を仕立てつ墓を守る身かな」と2つの句を詠んだ。病中の漱石の日記、10月4日火曜日にはこうある。「鶺鴒(せきれい)多き所なり 鶺鴒や小松の枝に白き糞」
同じ、伊豆修禅寺で若き日に、鶺鴒の句を詠んだ親友子規は既にこの世になかった。漱石はちょうど「生を九仞(きゅうじん)に失って命を一簣(いっき)につなぎ得たるは嬉しい」と率直に書いた大病から生還したところであった。漱石は、その修善寺の苦しい病の床にあって、英国でその訃を聞いた亡友子規のことを何度も想起したであろう。そして、伊予の範頼の墓に参った日のことも思い出したに違いないと思うのである。

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伊予市上吾川十合の源範頼の墓
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稱名寺参道

稱名寺参道からの風景

鎌倉神社

鎌倉神社の森には五輪塔が点在している。範頼の従臣の墓といわれる。

鎌倉神社境内の漱石句碑

鎌倉神社境内の漱石句碑(表)
昭和16年6月11日除幕。裏書の村上霽月の明治28年5月に漱石が来遊したということを信ずれば、木枯しの句は実景を写したものではなく、想像力の所産となる。

稱名寺庭園の漱石句碑(裏)