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- 大川嶺連山の雪景 -  
第138回 美川スキー場再訪
 
 
 1997年1月号掲載、伊予細見第9回「四国アルプス美川スキー場」以来の美川スキー場である。無風快晴、前日に降り積んだ新雪におおわれたゲレンデは最高の状態だった。

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美川スキー場へ

- 大谷組への上り -

 内子から大瀬を過ぎ、小田町を通って、真弓トンネルにさしかかるころから、木々の上に前日の雪がうっすらと積もっていた。トンネルを抜けて久万高原町に入ると路面にも所々雪が残っている。道路が拡幅されていてずいぶん走りやすくなったが、雪道は恐い。スピードを抑えてゆっくりと走る。落合で国道33号線に出て、上黒岩遺跡や移築保存されている重要文化財の茅葺き民家旧山中家などを 右に見ながら川沿いに走っていくと、御三戸という久万川と面河川の合流点で、左手に軍艦岩という名のついた巨岩が見えてくる。橋を渡って、軍艦岩を左に見ながら、右手の美川スキー場の看板に従って、急な坂道に入り、つづら折れの道をゆっくりと上る。大谷組の集落を過ぎる頃、白い雲と青く澄んだ空の下にたおやかな大川嶺連山が見えてくる。今日は快晴で、山の中腹から白い帯の様に伸びるゲレンデがはっきりと見える。路面には前日の雪がところどころ残っているが、よく除雪されていて、ストレスは感じない。走っている車は前を行くワゴン車1台ばかりである。針葉樹の林に入ったり、出たりして上っていくと空が開け10分もすればスキー場である。

スカイラインコースへ

- 大谷組から美川スキー場を見る -


- スキー場入口 -

 美川スキー場は、昭和35年に開設された。ゲレンデがつくられた場所は、もと大谷組の茅場であったという。山登りに来る若者たちがいつの頃からかスキーを担いで山に上がり、大谷組の民家に民泊して、茅場に積もった雪の上でスキーを楽しむようになったのがスキー場ができるきっかけになった。当時は、山行に来たついでに、雪景色を楽しみながらゆっくりと歩いて登り、滑っては又登るというのんびりした遊びだったようである。613メートルの長さの第一リフト(今は617メートルのペアリフト)が完成したのが昭和40年。現在は4基のリフトが稼働中である。
 今日は日帰りである。新しい大谷山荘の前に車を停め、スキーを履いて、ゲレンデへの連絡リフトである第五リフトに乗る。リフトを降りて、左手百メートルほど前方の第2リフトに乗る。
足慣らしに、スノーボードコースという300メートルの斜面を一度滑り、もう一度第2リフトに乗って、今度は右手にトラバースして第1リフトの乗り場に下った。
 背後の山々まで深い雪に覆われていて、とても南国のスキー場とは思えない。青く澄んだ空を白い雲が走っているが、地上には風もない。第一リフトは途中から林の中に入る。綿のような雪に包まれた木々の枝先の間から、ほんのりと柔らかい日の光が透けてくる。
 リフトの頂上からコースは左右に分かれる。左に下ればジャイアントコース。右手に回ればパノラマコース。リフトの降り場の辺りにいる人々を見ると、スノーボードの人がほとんどである。

- スノボーコース -

スキーの人も、新しい、先が丸い短くなったスキーを履いている。私のスキーは、二十年近く前にもとめた旧式の山スキーである。2年前に一度使ったきりご無沙汰していたから、靴も締具も事前に点検してもらった。幸い、問題なく使えるとのことではあったが、いささか時代の変化を感じた。最初は、パノラマコースを滑った。空は晴れているが、向い側の明神山の辺りにはところどころ靄がかかっている。
コースは、斜度も適度に緩急があり、幅も狭くはない。自然雪で、よく圧雪されていて滑りやすい。しかし、出だしで、一度転んだ。体力に寄る年波は避けることができない。心して、滑ろうと気を引き締める。このコースが、八方尾根のリーゼンスラロームコースに似ていると聞いたことがある。それほど的外れではないとあらためて思う。北アルプスとの標高差もあり、一本のリフトで約1キロのこのコースは、八方尾根の三本のリフトで三キロという全体の距離にはかなわないとしても、コースの面白さと爽快さについてパノラマコースには文句のつけようがない。雪さえあれば、素晴らしいコースである。


- 第1リフト -


- 第1リフトは林間を通る -


- 第1リフト頂上付近 -


人工降雪

- パノラマコース頂上 -
 このパノラマコースには思い出がある。13年前の年末、当時の美川村役場の林克也さんと、昭和63年のスノーマシン導入以来、人工降雪に携わってこられた坂本勝行さんに、パノラマコースでの人工雪の降雪作業を見せていただいたのであった。

- パノラマコース -
 ナイターの営業が終わった深夜、ゲレンデの気温が零下2度を下回ると、第一リフトの近くにある管理事務所内にブザーが鳴り響く。零下2度以下に冷え込むと、天然雪にまさる粉雪がつくれるという。待機している坂本さんたち人工降雪の担当者がマシンを出動させる。マシンを置く場所は、日中に何度もゲレンデを歩き、状態を確認して決めてあるが、風向きなどの気象条件によっては、雪が不足している場所での降雪作業が難しいこともある。どこにマシンを配置するかについては、気温が下がった時点での総合的な判断が要求される。降雪の効率だけでも、又雪の不足だけでも場所はなかなか決定出来ず、迷いに迷って決めるというお話であった。

- 大谷山荘食堂 -
 宿泊も可。カレーや牛丼などがおいしい。
 その日の深夜、人工降雪では当時、美川1番のベテラン坂本さんがスキー場の最上部の第1リフト終点付近に雪を降らせるのに同行させてもらった。気温は零下2度、月夜の日であった。ときたま強い風が吹き抜けていく。2台のスノーマシンがゴーッという音を発しながら、ものすごい勢いで雪を降らせる。坂本さんは降り続ける雪の下に入ってじっと雪質を確認される。気温が上がり、みぞれになっていればマシンを止めなければならない。ノズル位置の調整作業が終わった後、坂本さんについてスカイラインコースを下った。晴れ渡った夜空の正面にオリオンが見えた。2月半ば過ぎになると、降雪作業が終わる明け方の3時頃に金星がモミの木コースの北の方に見えるようになる。月夜の日でも、金星は、はっきりと見えるそうだ。金星を見ながらもうスキーシーズンも後1月と思うと言われた坂本さんの言葉を今も覚えている。 13年前に来たのは12月半ばで雪が少なく、モミの木コースだけが滑走可能だった。その後、ずっと温暖化が進み、最近の暖冬傾向には歯止めがないかのようではあるが、今日の美川スキー場は全面滑走可能で、雪質も最高だ。パノラマコースを何度か滑り、ジャイアントコースを一度だけ滑った。斜度は最大37度となかなかの急斜面だが、幅はたっぷりある。圧雪が控えてあり、私には手ごわかったが、上級者には楽しいコースだろう。その他のコースを最後に1度ずつ滑り、昼にした。平成の合併で、美川村は久万高原町になり、スキー場の管理も変った。しかし、周囲の自然の美しさとコースのよさは少しも変らず、レストランや宿泊設備は充実を増していた。あれから、美川には何度か来たが、スキー場は「また来ます」と言いながら実に13年ぶりであった。

仕七川小学校

- 仕七川、ふるさと食堂の「いなか蕎麦」 -
 2時過ぎに山を下り、御三戸の橋を渡って右折、面河渓谷の方へ走った。仕七川(しながわ)小学校の木造校舎を見て帰ろうと思ったのである。仕七川は明治の町村制で出来た旧村の名で仕出(しで)、七鳥(ななとり)、東川(ひがしかわ)、の3つの大字(おおあざ)から一文字ずつとった地名である。川沿いにしばらく行くと、小学校や郵便局や雑貨屋、食堂などが集まった、山の中の小さな町が見えてくる。
 仕七川小学校の先の「ふるさと食堂」に入り、蕎麦とおでんを食べた。店のおばさんが、建替わる前の北校舎の木でつくった模型が学校に飾ってあるから見せてもらいなさい、「そりゃあ、見事なもんやから」と勧めてくれる。

- 昭和29年築の南校舎 -
綺麗に塗り直され、大切に使われている。
 蕎麦を食べて温まった後、小学校に寄った。校長先生が木造昭和29年築の南校舎廊下に飾ってあった、大正15年築の北校舎の模型を見せてくださった。この木造校舎が好きだった菊間町の方が、解体された時につくって寄贈されたものという。校舎の建具や内部の廊下、教室まで再現してある精巧なものである。校舎が建てられた当時の生徒の数や、校長先生の名を墨書した小さな木の看板もつくってある。作者の方の木造校舎へのほのぼのとした愛着が伝わってくる出来栄えである。
 外に出て、表側から綺麗にペンキを塗りかえられた南校舎の写真を撮った後、帰路についた。


- 大正15年築の北校舎の模型 -


- 仕七川小学校北校舎模型の小さな木製看板 -


 
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