過去の連載記事
同じ年の連載記事




第56回 旧別子銅山紀行
近代化産業遺産の旅 その2 
愛媛県宇摩郡別子山村~新居浜市 
 11月下旬、友人と2人で、宇摩郡別子山村の登山口から標高約1,300メートルの銅山越を越え、角石原の銅山峰ヒュッテまで、植林の中に残る銅山の廃墟や谷筋に残る街の跡を訪ねた。

 小足谷(こあしだに)
 午前6時頃松山を出て、新居浜インターで高速道路を降り、旧別子銅山入口の案内板が立つ登山口に着いたのが8時過ぎだった。車を置いて、登り始めたときに、ひんやりと曇った空からパラパラッと雨が落ちた。すこし天候に不安を感じたが、雨はすぐに止んだ。階段が切ってある登り口から、よく整備された道を、谷底を流れる足谷川の水音を聞きながら5、6分も登ると右手に円通寺小足谷出張所の跡がある。
 右に分かれた谷の両側に築かれた石垣の上に、点々と年を経た墓標が立っている。元禄4年(1691年)に別子銅山が開かれてから、住友が大正5年(1916年)に旧別子から撤退するまでの225年間に別子銅山で亡くなった人たちの墓である。登山道の脇に建てられた「奉為無縁佛各精霊菩提也」という碑を拝して、さらに登る。小さな橋を過ぎると右に石垣が見えてくる。旧別子の中で最後に開けた小足谷の集落の跡だ。右の林の中に入ると明治3年に造られたという醸造所の赤煉瓦の煙突が建っていた。山中で働く坑夫達のために最盛期には年間約100キロリットルもの酒を醸し、味噌や醤油もつくったという。集落の跡は奥に続く石垣のあたりらしい。立派な赤煉瓦塀が残る採鉱課長の住宅跡や登山道に面した鉱山を訪れた要人を泊める接待館跡などを見た。立派な煉瓦塀の中には建物は全く残っていない。かわりに植林された杉や桧が林立し、薄暗くひっそりとしている。遠い昔に去った賑わいを思えば凄絶な風景である。多くの人たちが暮らした賑わいの声を聞くには目を閉じて想像力にたよるしかない。
 少し上がった山神社に賽(さい)し、平坦な登山道を川にそって歩いていくと劇場や学校、病院の跡の大きな敷地の跡もあった。
 南伊予の旧いへんろ道を歩き、ふと目を凝らして周囲の山を眺めると、かつての棚田が杉や桧の林になっている場所にしばしば出会う。農村から都市に人口が流出し、過疎が進んだ昭和30年代、子孫が飢えに苦しむことのないようにと営々と拓かれてきた棚田に杉や桧が植えられた。それが今はもう自然の山のように育ち風景が一変している。どこかそれと似た雰囲気を感じた。
 歓喜鉱から銅山越
 登山道はほどよく手が加えられ、安全で歩きやすく佇まいも美しい。少し陽がさしてきて、青い空が広がってきた頃、ダイヤモンド水広場という四阿のある平坦な場所に着いた。坑外ボーリング調査中に偶然、地下80メートルの水脈にあたり、今も、地下水が自噴している場所だ。冷たくおいしい水を飲み、小休止したのちに川にそってさらに登る。対岸にそってずっとがっしりした石垣が積まれているのが見える。明治32年の別子大水害で壊滅した高橋(たかばし)製錬所の跡である。新居浜地方の煙害に対処するために拡張が続いていたそうだが大水害後には、再建されることがなかったという。
 少し先で、銅山越えという標識に従って鉄の橋を対岸に渡った。やや急になった登りを10分くらい上ると勾配が緩み、木方焼鉱窯跡という案内板のある場所に着いた。かつて焼鉱窯(やきがま)が山の斜面を覆っていた場所で、下の谷川の近くには坑夫の集落が密集していた。重任局(鉱山事務所)も置かれていたことがあるという。新居浜市発行の『歓喜の鉱山』に掲載されている木方焼鉱窯の写真を見ると、木が1本もない剥き出しの急な山の斜面に焼鉱窯が張り付くようにびっしりと並んでいる。今の樹木に覆われた山の姿からは当時の人工が自然を制圧したような風景を想像するのはとても難しい。
 やはり木々に遮られてよくは分からないが、足谷川の対岸には別子銅山の中心地として栄えた目出度町鉱山街があったという。大正5年の旧別子撤退ですべての施設が撤去され、今は林の中に石垣が残るだけになっているという。全山で513名の命が失われた明治32年(1899年)の別子大水害で370名の死者を出した見花谷社宅があったのはその少し下のはずである。
 墓所の山
 元禄4年(1691年)に別子銅山で最初に開鑿された歓喜坑と右隣の歓東坑に寄り、案内標識が立つ分岐から牛車道の方に迂回して銅山越をめざした。幅の広い足元のしっかりした道だ。南に展望が開け、すぐ下の小高い岩山の頂上にコの字の特異な形に積まれた石積みが見えてきた。「蘭塔場(らんとうば)」という。蘭塔場とはお墓のことで、元禄7年の火災で亡くなった132名の人々の墓所である。こうやって見てくると旧別子は全山いたる所、多くの人々が永遠の眠りについている場所であることを思わざるを得ない。
 関東大震災や東京大空襲の死者達の眠る土地の上に今日を築いた東京は墓地の上に立つ町だと言う人がいる。死者の鎮魂を忘れてはならないという心であろう。1度は人工に制圧された銅山の山に美しい自然が甦生したかに見えるが、その山中にいかに多くの人々が静かに眠っていることだろう。そんなことを思いながら銅山越にたどり着いた。 峰地蔵に参った後、1度銅山峰ヒュッテのある角石原(かどいしはら)に下った。かつての山岳鉄道の停車場である。南側の東延斜坑から嶺北の角石原まで掘りぬかれた第1通洞(トンネル)の北口を見てから、ヒュッテの前のテーブルで弁当を使わせてもらった。しばらく休んでいたら、山姿の矍鑠とした男性が落ち着いた足取りで近づいて来た。隣りのテーブルの上にリュックをおろし、われわれと挨拶を交わした後、まわりの下小屋や作業場を点検されてから、ヒュッテの玄関に戻って来られた。私は風格ある風貌からヒュッテのご主人伊藤玉男氏ではないかと想像した。今年の近代化遺産のパンフレットの中で心に残った文章を書かれた人の名前として記憶していた。
 山岳鉄道の通っていた場所などについてホンの少しだけお話を伺った。角石原の周辺の山は新式のストール釜という焼鉱窯で覆われていた重要な作業場であったそうだ。
 伊藤氏に教わったストール式の焼鉱窯の据えられていた石垣の跡を見て、昼過ぎに再び銅山越えに登った頃には多くの登山客が銅山峰の山上で憩っていた。私たちも、晴れ上がった空の下で、温かい陽射しを受けながら西赤石岳や眼下に広がる新居浜市街の展望を楽しんだ。
 帰路は、登りの時に上から見た蘭塔場に参って、目出度町鉱山街跡を辿って山を下った。東延斜坑や第1通洞の南口、最初に大山祇神社の分社を勧請したという縁起の鼻も行き過ぎてしまったし、新居浜市側の上部鉄道の遺蹟なども見残してきた。次は銅山峰ヒュッテに泊り、ゆっくりと1つ1つの遺蹟を訪れてみたいと思う。

〈参考〉
「歓喜の鉱山」新居浜市刊

Copyright (C) TAKASHI NINOMIYA. All Rights Reserved.
1996-2012


蘭塔場跡
元禄7年(1694年)、焼鉱窯の飛び火で別子全山を焼く大火災が起き、初代元締の杉本助七ら132名の人々が亡くなった。犠牲者の慰霊のために住友家が築いた墓所である。墓碑は新居浜市の瑞應寺に写されたが毎年盆にはこの場所で供養が続けられている。
それぞれの写真をクリックすると
大きくなります

歩きやすく自然に包まれた道

別子銅山で最初に開鑿された歓喜坑

銅山越を北側に下ったところにあるの墓地

牛車道跡
仲持ちによる人力運搬にかわる新道として開削。現在は目出度町鉱山街跡から銅山越えまでが登山道として利用されている。

角石原の銅山峰ヒュッテ
(4月~10月 冬期は週末のみ電話0897-41-0907)かつて物資の発着場として賑わった上部鉄道の停車場跡に建つ。上部鉄道は日本屈指の山岳鉱山鉄道で海抜1,000mの断崖絶壁を蒸気機関車が走った。全長5.5キロ。