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海から見た久良の砲台跡(右)と
付帯施設を守るための石塁(左)
第125回 高野長英紀行 〈その1〉
ドクトル長英の砲台
 愛南町久良 天嶬の鼻
 高野長英の宇和島藩での足跡をたどってみた。 今回は、長英が現地を踏査して設計した砲台跡のある愛南町久良の天嶬の鼻(旧城辺町)である。

「水沢の人」
 高野長英は文化元年(1804年)5月5日に、岩手県の水沢で生まれた。
 鶴見俊輔は、評伝『高野長英』の冒頭に、水沢には古くから「伊達藩あるいは留守藩内部の歴史、日本の岩手県内部の歴史に押し込めることのできない国際的な地平」が開かれていたことを印象深く記している。
 世界的な視野を持ち、自らの学問を経世済民の実学として活かすことに命をかけた高野長英もまた、安倍貞任や、キリシタンの岐部ペテロ、カルヴァリョ、後藤寿庵たちが活躍した水沢という土地の記憶を受け継いだ人の1人であると鶴見は言っている。 宇和島にやって来るまでの長英について、簡単に振り返っておこう。
 長英は、17歳の時に江戸に出て、苦学をしながら(あんまをして学資を稼いだ)、蘭方医吉田長叔に入門、内科を修める。長英の名は長叔に一字をもらったものである。
 文政8年(1825年)師の長叔が加賀金澤で病没した翌年に長崎へ行き、シーボルトの鳴滝塾に入門。翌年には、シーボルトよりドクトルの称号を授けられ、シーボルトの依嘱で和文蘭訳を行うほどの語学の才を発揮している。
 文化11年(1828年)11月にシーボルト事件が起きる。長英も、初冬に長崎を出発し、熊本や日田の咸宜園にしばらく滞在した後、広島、尾道、京都、名古屋などの各地で講義や治療をしながら、天保元年(1830年)10月に江戸に戻って塾を開く。
 天保4年1833年には洋学を「経世済民」の実学として、医学のみにとどまらず政治・経済・国防にまで役立てようと、尚歯会を起こす。リーダー格の長英は、大飢饉の年、天保7年(1836年)に『二物考』(挿絵は渡辺崋山)を著して、気候不順でも良く実るじゃがいもと早そばの栽培を諸藩にすすめるとともに、『避疫要法』を出して、平易に悪疫流行の未然防止策を説いたりした。  幼少時、東北地方の飢饉を見て育った長英にとって、自分が努力して蓄えた知識を技術的構想力として飢饉対策に発揮することは、最も望ましい仕事であった。
 天保8年(1837年)大塩平八郎の乱。天保9年(1838年)10月21日、公開の意図なく政治的著作「夢物語」を著す。その年の冬長英は、松山藩の物理学者、青地林宗の娘を妻とする。35歳、長英の仕事と暮らしが最も安定した約8年間の終わりの年であった。
 天保10年(1839年)年5月、「夢物語」の件で自首し下獄。12月終身禁獄の宣告を受ける。
 入獄7年目の弘化2年(1845年)3月27日未明に起きた獄舎の火災に乗じて、長英は逃亡生活に入る。故郷の水沢など東北の各所、江戸などを経て、嘉永元年(1848年)4月2日未明、宇和島に到着した。
 長英の比類ない洋学の知識を軍事に活かしたいと考えた宇和島藩主伊達宗城の希望によるものであった。

宗城の海防策
 伊達宗城は藩主となった当初から、豊後水道から外洋に開かれた宇和島藩の沿岸を守るために砲台建設を計画し、威遠流と言う独自の高島流砲術の実用化に力を尽していた。
 当時は、アヘン戦争の顛末が伝えられ、交易を求める諸外国の船舶がしきりに来航して、日本中を揺るがしていた時代であったから、海防策への関心は当然のことであるが、宗城は、水戸の烈公、徳川斉昭や薩摩の島津斉彬、佐賀藩主鍋島直正、福井の松平慶永らと緊密な連絡を取りながら諸藩にさきがけた海防策を講じていたのである。
 中でも、蘭癖とまでいわれた蘭学好きの宗城と、尊王攘夷で洋学嫌いの斉昭という一見、ミスマッチのような二人が頻繁に書簡をやり取りし、大砲と軍艦建造について具体的な意見交換をしたり、蘭書の貸借を何度もしていた。宗城は極秘であった長英の動向についても斉昭にだけは知らせていたそうだ。
 宇和島藩は、斉昭の仇敵で、後に安政の大獄を断行した井伊直弼とも親戚関係にあったため、先代の宗紀(天赦園をつくった春山候)が井伊直弼に接近するなど、やや微妙な関係もあったが、宗城は斉昭の子の一橋慶喜を将軍に擁立せんとした紛れもない「一橋派」であったし、会沢正志斎や藤田東湖らの著書を読み、水戸学の思想にも共鳴していた。斉昭もまた、宗城に、水戸藩の内情や幕政の動向について、立ち入った質問を繰り返している。二人の往復書簡を研究した故河内八郎氏は、幕末の諸侯の中でも、宗城と斉昭が、思想的に最も近かったことを指摘している。
 斉昭は幕府の海防参与まで務めたほど、徹底的な軍備強化と軍事訓練に熱中していた。結果的には、斉昭が梵鐘仏像を鋳つぶしてまで鋳造した大砲は、幕末水戸藩の内紛と水戸天狗党の争乱の凄惨な同胞殺戮にすさまじい威力を発揮するという悲劇を生んだ他に、ほとんど役立つことはなかった。一方、宇和島藩は比較的穏当に維新を迎えることが出来た。いずれにせよ、当時の外圧に対する支配層の危機意識には想像を超えるものがあったものと思われる。

長英の砲台
 天嶬の鼻には一度、冬に出かけたことがある。誤って長英の砲台跡を通り過ぎ、岬の突端まで行って崖を下った。小さな砂浜があり、海の水が冷たく澄んでいたのを記憶している。その時は、日が暮れかかり、ついに砲台跡は見ずに帰った。出かけたのは、秋晴れの昼少し前である。国道から船越に行く道に入り、久良の集落を抜け、ゆっくりと地図を確かめながら、岬の細い道に入った。一度、道を両側に繁った木が覆い薄暗くなる。少し心細くなったかと思うと、空が開けて道も広くなり、大きなカーブが見えてくる。天嶬の鼻の尖端はまだ数百メートル先だが、そのカーブの突き当たりに砲台跡の新しい説明板が立っていた。砲台跡は左手に続く、細い道をまっすぐ下って少し上ったサザレ鼻という岬の突端にあった。崩れかかった砲台の石垣の手前に、長英設計の砲台跡であると言う小さな碑が立っている。砲台の周囲をクモの巣を払いながら一周してみたが木が繁って眺望は開けていない。正面は東向きで、木々のすき間から深浦港の方が見えた。
 嘉永元年(1848年)の秋、長英は宇和島藩の威遠流砲術家板倉志摩之介と松田源五左衛門、門人の土居直三郎を伴い、この地をおとずれた。約8日間滞在し、測量を行い、砲台を設計したという。完成は、長英が去った後の嘉永3年初夏。板倉志摩之介らの砲術家が長英の設計を元に、図面を起こし、外海浦庄屋二宮市右衛門らが土木工事を行った。攻城超発(シャクリウチ)砲台で備砲は三門。「斜発のために便利にいたし候」と砲台土図にあるから斜めに打ち上げるやり方なのだろうか。私にはわからない。砲の名は「カルロンナーデ」と称し、後に雷管使用に改善されたという。
 砲台の説明板に付帯施設を守る100メートル程の石塁が右下の海岸に残っているとあったが、海岸への降り口がわからない。逆に、左下に下る道を降りて、海岸に降りてみた。火薬庫が後ろの方にあったようだが、これもよくわからない。「城辺町誌」には煙硝蔵の建物は明治になって砲台の番人の子孫に払い下げられ、対岸の旧城辺町日土の子孫の家には砲台場役人の家も移されたとあるから、残っていても、基礎くらいであろう。
 久良の集落に戻り、小さな釣船に乗せてもらうことにした。先刻、北側の海辺におりて見上げた、砲台跡には港から数分もかからない。地元の人たちは昔から「御台場」と呼んでいる。白い崖がそそり立っているので、すぐにわかる。「御台場」の南側に続く海岸に、100メートル近く続く石塁が見えた。背後は鬱蒼とした林である。満ち潮だったから、海岸に近づけるところまで、近づいてもらった。
 去年の台風で一部が崩落したと言うが、なかなか迫力のある風景だ。実際の砲台跡は木が繁って人工の痕跡がみえにくいので、却って石塁のほうが砲台跡のように見えなくもない。船をもう少し沖に出してもらって、天嶬の鼻と砲台跡と深浦港、試し撃ちをした時に着弾した古月との位置関係を確かめた。砲弾は地図の見当だと安々と一キロ以上も飛んでいる感じだ。当時の大砲が、どれほどの正確さで着弾したのか、確かめる術は無いが、ちょっと信じられないくらいの距離である。
 長英がこの地を訪れたのは、11月22日。雪のちらつく季節の頃、12月1日に宇和島に帰っているそうだ。 (以下次号)

〈参考〉
『高野長英伝・全』(高野長運著 史誌出版社)・『徳川斉昭・伊達宗城往復書簡集』(河内八郎編 校倉書房)・ 『幕末期宇和島藩の動向』(三好昌文著・発行)・『高野長英』(鶴見俊輔著 朝日新聞社)・ 『長英逃亡』(吉村昭著 新潮文庫)・『覚書 幕末の水戸藩』(山川菊栄著 岩波文庫)・『城辺町誌』

写真提供/愛媛県立歴史文化博物館

久良砲台 点描
 今年、亡くなった吉村昭の『長英逃亡』に長英の久良への調査旅行の模様が描かれている。
「長英は潮風に吹かれながら岬に立った。岬は東西の湾の中央に突き出ていて、遠く土佐の沖まで一望できる。砲台設置にこれ以上適した地があるとは思えなかった。…長英は、その日から『砲家必読』に基づいて実地に即した荒設計図をえがき、地質、砲台に使用する石についての調査もおこなった。その地は魚類が豊富で、人情がことのほかあつい。宇和島の住民も親切であったが、それ以上に純朴な気がした。
 砲台は、天儀ノ鼻の尖端にもうけ、大砲は三門とし、左右の砲は、わずかながら東、西の方向にむけてすえる。砲台の右崖下には、海上から砲撃されても崩れぬような堅固な石塁をきずき、そのかげに砲台に勤務する者の起居する住居を建てる。また異国船から発射される砲弾が落下することのない崖下に火薬庫を置くように指示した」。(『長英逃亡』より)
 今は、木が繁って砲台跡からの展望はきかないが、海に出て、御台場の下に船をとめて、対岸を眺めると、試し撃ちの目標と着弾の様子を記録した絵図の風景が砲台の前に広がり、砲台や石塁の様子を描いた吉村の的確で過不足のない表現に納得させられる。
石塁に下る道を地元の人たちが整備し始めたと聞いた。落葉の季節になったらまた出かけてみたい。

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1996-2012


久良サザレ鼻砲台の跡
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伊達宗城が収集した蘭書の目録と高野長英が書名と摘要を記した付箋。
財団法人伊達文化保存会蔵

崖の上が久良砲台

長英自筆の「砲台土図」
久良砲台の設計内容を具体的に説明したもの。財団法人伊達文化保存会蔵

御台場より少し南から、深浦港を見る

久良砲台試撃之図
財団法人伊達文化保存会蔵。
▲印が標的。●印が着弾点。

高野長英築造の台場附近の地図