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第102回 伊達兵部一族の墓
 
愛媛県吉田町立間 大乗寺 
 吉田町立間にある吉田藩侯の菩提寺玉鳳山大乗寺を訪ねた。前庭の紅葉が見たかったし、伊達騒動で吉田藩にお預けになった伊達兵部一族の墓所も探ねてみたかった。

大乗寺へ
 朝から気持ちよく晴れた、もう明日が師走という日であった。陣屋町の町割りを、ほぼ昔のままに伝える吉田の旧町内を抜け、立間の大乗寺に向かった。
 たまたま数日前に、伊達騒動の周辺を描いた森外の短編『椙原品』を読み、久しぶりに、原田甲斐を主人公とした山本周五郎の長編『樅の木は残った』を読み返していたところだった。大乗寺にあると聞いていた、伊達騒動の主役伊達兵部の一族4人が眠る墓地を見てみたいと思った。
 県道を走り、医王寺下の石垣を過ぎて立間川を渡る。すぐ右に曲がり、そのまま川沿いの道を行くと、ほんの少し先の左手の民家の先に天保山の緑に包まれるようにして、大乗寺本堂の大きな屋根が見えてくる。何年か前に葺き替えられた瓦が鉛色に光っている。駐車場から杉の巨木がみちびく直角に曲がる参道に入ると、山門の向こうに紅葉の庭が見えた。
 大乗寺
 私は、吉田を訪ねてくれた友人をよく大乗寺に案内する。禅道場の静謐な雰囲気や、本堂前の楓を主とした庭の落ち着いた佇まい、そして、品格のある寺の建築をほめぬ者はいない。贔屓目かもしれないが、山門、本堂、庫裡をはじめ地蔵堂、経堂などの建物は、京都奈良の寺院に比べると決して豪壮とはいえぬが、細部の彫刻や意匠も精細で、とても美しいと思う。
 大乗寺に友人を連れて行くときは、禅道場なので、たいがい、本堂の前庭や天保山の山裾にある藩主の墓所に上って帰ることが多いが、朝早くに訪れてお寺の都合がよいときには、地蔵堂の内部や天保山を借景した庭園と経堂を静かにそっと見せてもらうこともある。

探墓
 伊達兵部の一族の墓は、いままで、なんとなく探したことがなかった。
 敢えて脱線するが、大乗寺で探墓したのは、日本近代ラグビーの祖ともいわれる同志社大学総長を務めた星名秦の先祖の墓だけである。星名は満鉄時代に、当時世界最速を誇った特急「あじあ」号の製造と運行を成功させた人として知られるが、京都帝国大学ラグビー部時代に名センターとして鳴らし、早稲田を破って全国制覇した。同志社教授時代には同志社ラグビー部の監督も務めた。ラグビーの英書をいち早く翻訳紹介して日本ラグビーの発展に貢献し、早稲田の大西鐵之祐を全日本監督に推したりもした。星名は、吉田藩士の家に生まれた父が移民した、アメリカ合衆国のテキサスで生まれたが、母は同志社と縁の深い、卯之町末光家の人である。私はたまたま古書店で星名氏の追懐録をもとめたことで、星名家の墓が大乗寺にあることを知った。そのときに、天保山の麓の墓地を歩きまわって探し、寺に尋ねてもみたが、ついに星名家の墓を見つけることは出来なかった。
 伊達騒動は万治3年(1660年)、幕府が仙台伊達62万石の藩主綱宗を突然隠居させ、2歳の亀千代(後の綱村)に家督を継がせたことに端を発する。幕府は、老中酒井忠清と姻戚関係にある伊達政宗の五男、伊達兵部宗勝と田村右京宗良に3万石ずつ分封させて後見としたが、次第に家老の原田甲斐宗輔と結んで藩政を主導する伊達兵部と反対派の伊達安芸宗重らの対立が昂じて来た。騒動は寛文11年(1671年)当時の幕政を専断していた大老酒井忠清邸で行われた両派の訴訟審問の場で、原田甲斐が伊達安芸を斬殺し、自らも斬られて死ぬという惨劇によってクライマックスを迎える。事件の結果、伊達兵部は、改易。本人は土佐藩に預けられ、長男の東市正宗興は豊前の小倉藩に預けられた。原田甲斐は家名断絶、当歳の孫にいたるまで男子はことごとく死罪。逆臣として処断された。
 吉田藩が預かったのは、兵部の長男東市正宗興の正室と3人の子供たちである。宗興の正室は、伊達騒動の幕府側の仕掛け人とも目される大老酒井忠清の養女であった。実は、彼女は酒井忠清の正室の妹であり、姉妹は姉小路大納言の娘であった。そのゆえに、酒井忠清の養女となって、兵部の嫡子宗興に嫁いだのである。
 仙台藩の伊達兵部と、人々に「下馬将軍」と呼ばれて権勢を誇った幕府の大老酒井忠清の、この姻戚関係が兵部の野心を強め、騒動を助長させた一因になったとされる。
 伊達騒動の後、吉田藩はこの兵部の縁者たちを、すすんで幕府に出願して預かった。それは、宇和島伊達藩10万石から初代吉田藩主となった宗純への3万石分知が伊達兵部の力添えによって実現したことに対する「恩返し」ともいわれ、また一説では、大老酒井雅楽頭忠清の妻の妹とその子供たちへの心配りともいわれる。
 兵部一族の墓
 吉田藩の思惑がいずれにあったにせよ、突然、南国僻遠の地吉田に夫宗興と引き離されて預けられた妻と幼い子供たちの暮らしは、心安らぐものではなかったであろう。
 環境の変化と心許ない暮らしのせいであろうか。宗興夫人は、預けられて10年後の延宝9年(1681年)8月12日に持病に食あたりを併発して亡くなっている。法号は「天祐院殿正林貞眼大姉」。
 3人の子供たちは母の死後、9年の後、元禄3年(1690年)4月にお預けを解かれたが、そのまま吉田にとどまった。
 元禄7年(1694)7月13日、吉田に来た時に4歳であった千勝が、27歳で病死した。「真霊院殿湛源全性大禅定門」。
 翌、元禄8年(1695)年3月20日に、6歳で吉田に来た千之助が病死した。30歳であつた。「即心院殿万夢一如大居士」。2歳で吉田に来た末弟の右近は、さらに12年を1人で生き、宝永四年(1707)4月22日に病を得て逝った。38歳であった。彼らの誰にも1人の後嗣もなかったと言われている。
 宗興夫人と兄弟の4基の墓は、本堂の左脇を抜けてすぐ右手にあった。ずいぶんわかりやすい場所であった。ちょうど経堂の左手にあたる。「吉田町指定史跡 伊達兵部一族の墓」という御影石に刻んだ標石が立っていた。墓はほぼ同じ大きさで表面の法号は風化していて読みづらいものもある。
 仙台から奥方と子供たちを送り届けてきた武藤新左衛門と付人の小岩仙左右衛門の永代塔が四基の墓石のうしろ側にあると「吉田町誌」に書いてあったが、日が翳ってきて墓碑を確認することができなかった。

兵部一族の墓
 吉田藩の思惑がいずれにあったにせよ、突然、南国僻遠の地吉田に夫宗興と引き離されて預けられた妻と幼い子供たちの暮らしは、心安らぐものではなかったであろう。
 環境の変化と心許ない暮らしのせいであろうか。宗興夫人は、預けられて10年後の延宝9年(1681年)8月12日に持病に食あたりを併発して亡くなっている。法号は「天祐院殿正林貞眼大姉」。
 3人の子供たちは母の死後、9年の後、元禄3年(1690年)4月にお預けを解かれたが、そのまま吉田にとどまった。
 元禄7年(1694)7月13日、吉田に来た時に4歳であった千勝が、27歳で病死した。「真霊院殿湛源全性大禅定門」。
 翌、元禄8年(1695)年3月20日に、6歳で吉田に来た千之助が病死した。30歳であつた。「即心院殿万夢一如大居士」。2歳で吉田に来た末弟の右近は、さらに12年を1人で生き、宝永四年(1707)4月22日に病を得て逝った。38歳であった。彼らの誰にも1人の後嗣もなかったと言われている。
 宗興夫人と兄弟の4基の墓は、本堂の左脇を抜けてすぐ右手にあった。ずいぶんわかりやすい場所であった。ちょうど経堂の左手にあたる。「吉田町指定史跡 伊達兵部一族の墓」という御影石に刻んだ標石が立っていた。墓はほぼ同じ大きさで表面の法号は風化していて読みづらいものもある。
 仙台から奥方と子供たちを送り届けてきた武藤新左衛門と付人の小岩仙左右衛門の永代塔が四基の墓石のうしろ側にあると「吉田町誌」に書いてあったが、日が翳ってきて墓碑を確認することができなかった。

京風の地名
 奥方や子供たちの短命を思えば、吉田での暮らしがどのようになされたのかを、簡単に想像することはできない。吉田の旧町内の陣屋町には東小路であるとか西小路であるとか、なぜか京風の地名が付けられている。それらの地名は、姉小路大納言の娘であった奥方の生まれ育った都を思う気持ちをかきたてたであろうか。せめて、4人の日常が、温暖な気候と海山が迫った明るい風光に慰められることもあったに違いないと思いたい。
 墓の写真を撮って、墓地の中を通る道にもどり、山裾の銀杏の落ち葉が降り積んだ石段を上がった。吉田藩伊達家累代の墓所は墓地のいちばん上にある。

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1996-2012


伊達兵部の嫡子宗興の正室と3人の子供たちの墓。
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大乗寺
庫裡玄関の小屋組。


大乗寺山門

大乗寺本堂

吉田藩伊達家累代の墓所で

大乗寺庭園と経堂