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第101回 北方社寺巡り
 
東温市川内町北方 
 東京で愛媛出身の友人と話していた。故郷川内町の北方というところがすばらしいという。おだやかな田園風景が広がり、歴史のある寺社が点在していて、のんびり散歩するのに最適なところだと言う。出かけてみたらほんとうによいところだった。

 北方
 東京根津の秋田料理の店で愛媛出身の3人が、美味しいきりたんぽの鍋をつついていた。私は南予出身。あとの2人は中予の出身で東京で暮らしている。愛媛に暮らしている私が「愛媛も、都会の風に染まってずいぶん変わってしまったよ」という少し、愚痴っぽい話をした。すると、川内町出身の友人が「たまに実家に帰るけど、うちの方は、そんなことは、全然ないよ」といって「北方(きたかた)」の散策をすすめてくれた。何年か前に、同じ川内町河之内の惣河内神社を訪ね、松根東洋城が仮寓した一畳庵を見せていただいた時のことを思い出した。心がスーッと開かれるような清冽な空気と、金毘羅寺の山門や境内の百日櫻、屏風のような山が迫る棚田の美しい景色などが一瞬浮かんだ。あのあたりに近いのかと聞くと、ずっと手前の松山よりだという。国道11号線、重信川を渡った少し先で、左手に行けばよい。わかりやすいので迷うことはないそうだ。友人が語る医王寺という寺の名や大きな楠がある神社の名前などを記憶にとどめた。
 東京から帰ってしばらく経ち、台風が過ぎた晴天の日に思いついて、「伊予川内」の2万5千分の1の地図を持って、川内町に出かけた。
 国道11号に出て、重信川を渡り、少し先の信号で左に入る。「川内町ふるさと交流館」という案内標識がある。しばらく田圃に囲まれた道を走ると道がゆるやかな勾配で上りになる。「さくらの湯」という小旗が道の脇に何本も風にはためいていた。左手の畑の向こうに、こんもりした神社の森が見えてきた。車を止めて、ちょうど行き違ったお年寄りに尋ねてみたら、まさしくこの辺り一帯が北方であるという。神社は揚(あがり)神社というそうだ。
 上福寺から
 地図を見て、そこから、また少し上がって、突き当たったところを左に曲がり、さらに上ってトウモロコシ畑の先の山すそのお寺の前で車を止めた。境内に大きく枝を広げた楠の巨木が聳えている。北斗山上福寺というお寺であった。正面の石段を上がった。上福寺の大字は北方ではなく松瀬川だ。ちょうどこのあたりが北方との境目のあたりになるのだろうか。このお寺は、元は法相宗で聖武天皇の神亀5年(728年)に創建されたという。本尊は釈迦如来。現在は真言宗豊山派。南北朝時代の戦乱の余波を受け則之内から移されたという説もある。石手寺や太山寺などとともに河野氏とゆかりの深い寺で、河野七本寺に数えられている古刹だという。(川内町新誌・川内町の文化財※出かけた日に、上記2書を入手しました。年号・歴史について、以下の記述も両書に拠っています)
 本堂に参った後、石垣の端に聳える楠の巨木の下に立った。正面に四国山脈の山々が青く霞んで見え、近くには豊かな田畑の風景が広がっている。松山市内の喧騒がすぐそばにあるとは思えないのどかな風景に思えた。
 上福寺の楠は、江戸時代の後期に、落雷で焼けた松山城再建に使う材木の候補に上がったことがあるという。そのとき、里人たちは、急いで石垣を築いてこの楠の根元を隠し、検分にきた役人たちに木を小さく見せたという話が伝えられている。樹齢500年と言われるこの楠が、この土地の人々にとって、いかにかけがえのないものになっていたかということであろう。
 石段を降り、何軒かの民家が連なる道を右に下った。しばらく行くと道端に石の常夜燈が立っていた。そこから左に下る道がある。地図で確かめると、先程通り過ぎた揚神社の森の方に通じているようだ。私はそのまま、まっすぐに歩いて行った。左手に田圃や川内の市街の展望が開け、友人が教えてくれた医王寺がすぐ道の右側に見えてきた。
 医王寺から揚神社へ
 医王寺は大宝2年(702年)行基の開山という。神亀3年(726年)聖武天皇の詔勅で官寺となり、、大同二年(807年)に空海が留錫(りゅうしゃく)して真言宗の寺院となったそうだ。延久3年(1071年)には源頼義が堂宇を再建したとも伝えられている。本尊は行基自刻の薬師如来像。拝観は出来ないが、本尊の薬師如来を納めた厨子(ずし)には天文3年(1534年)の墨書銘があるそうだ。友人が力を込めて由緒の古さを語ったのは理由のないことではない。
 石段を上がると、苔溪山という扁額がかかった仁王門がある。左右の仁王像はいつの時代のものかは知らないが、表情には歴史と威厳を感じさせる力がある。漱石の「夢十夜」第6夜に護国寺で運慶が仁王を彫るのを見に行く夢の話があるが、ここの仁王像も夢に運慶が出てきても不思議ではないと思うほどである。右が阿形、左が吽形。仁王門の建物は、8角の柱で建てられている八脚門。屋根は、もとは茅葺きのものを、昭和33年に檀家一同が協力して、寄棟瓦葺きに改築した。その時に「久米郡北方村馬助慶長17年」という松板(まついた)があったそうだから、今から380年以上前の17世紀初頭には、すでに建っていた建築ということになる。本堂の右手には栃の巨木が立っている。この木の巨きさも、この寺の歴史の古さを物語っていた。
 医王寺のつつましく静かな境内から隣にある岡之坊に出た。慶長12年医王寺の長伝和尚の創建という。民家のような風情である。古い門と御堂がある。岡の坊から脇の道を少し上る。畔にコスモスが咲いている。右手に折れて医王寺の屋根を見ながら、田の中の道を行くと小さな蓮池に突き当たった。池の真ん中に五位鷺が1羽いる。写真を撮ろうと近づくと、急に羽を広げて飛び立っていった。蓮池の先に西法寺墓地があった。ここにあるという鎌倉時代の五輪石塔群を探す。小さな御堂と六地蔵の右手の墓地の前の方にすぐに見つかった。説明板もある。
 西法寺の墓地は、西法寺が廃寺となった跡と言われている。東に石鎚連峰、西は道後平野から伊予灘の島々を眺望できる場所である。古老たちが、昔から西方極楽浄土につながる墓地として有名であったことを語り伝えているという。三津や松山市内にもこの地に埋葬納骨する習慣があったそうだ。横1列に並べられた五輪の石塔群を見た後、道を下って医王寺の前の道に戻った。常夜燈のところまで引き返し揚神社に向かう。揚神社の森はどこからもよく見えるので迷うことはない。刈り入れの終わった田圃の中の道をゆっくりと歩いて、10分ほどで揚神社に着いた。
 祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。拝殿には36歌仙の額が掲げられていた。揚神社の境内にも楠の巨木がある。町内で1番大きい木であるという。枝張りの位置が高いので、近づくと幹の大きさに圧倒される。目通り7、8メートル、高さは36メートル。この木を切ると赤い血が噴き出したとか、斧を打ち込んだ男が死んでしまったとかの言い伝えがあるそうだ。
 友人の言う通り、「北方」はふだん着の姿が素晴らしい、歩いて気持ちが癒されるような所だった。のどかな風景の中に古い歴史を持つ寺社が点在している。1つ1つの寺社を訪ねただけでも歩きがいのある所であると思う。川内は標高が松山の城山とほぼ同じなので、見晴らしがいいことも大きい。

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1996-2012


医王寺仁王門 柱は8角形の断面を持つ、八脚門。
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上福寺の境内


揚神社の楠。町内一の巨木。樹齢700年という。

揚神社
大字北方字揚。拝殿には36歌仙の額が掲げられている。

上福寺へ上る道から揚神社の森。

上福寺の楠の下からの眺望

医王寺仁王門の仁王像阿形。

上福寺から医王寺への道に立つ常夜灯

岡之坊の門

西法寺から上がった道の脇の農家。

西法寺の五輪石塔群
鎌倉時代建長の年号のものもある。