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所々に歴史を重ねた民家がある氷見の町並み。
第128回 氷見紀行
 
 西条市氷見
 西条平野の北西、氷見に出かけた。江戸時代に開かれた禎瑞新田から見る石鎚は雪まじりの曇り空に隠れていたが、旧道沿いには歴史を感じさせる町並みが続いていた。

 (それぞれの写真をクリックすると大きくなります)
氷見へ
 薮野健先生が絵に描かれた西条市の酒蔵を(今月号表紙参照)を一度訪ねてみたいと思っていた。先生が絵を描かれたのは、1989年、今から約18年前のことである。先生にお聞きすると、西条や酒蔵のことは記憶して居られたが、醸された酒や場所についてはもうはっきりとは記憶されていなかった。
 私は、スケッチにある堀池酒造の名も酒銘も、もともと知らなかったから電話番号を案内で調べた。すぐにわかった。電話をすると、おばあさんが出た。「松山でおたくのお酒をもとめられますか」と聞くと、「松山にはありません」という。それでは「そちらにおうかがいします」ということになり、とりあえず原酒の1升瓶を1本注文した後、場所を教えてもらった。「堀池酒造場」は小松と西条の中間、山の方に国道からはいった所で、近くで尋ねればすぐにわかるとのことだった。
 2月1日、南予に雪が積もった日に、西条に出かけた。松山を出る時は、夕陽のような朝日が山の上に上がっていたが、高速に上がって川内インターを過ぎると朝日は右側に迫ってきた山の端に姿をかくしてしまった。

- 四国霊場63番密教山吉祥寺の毘沙門堂 -
 小松インターで高速を下りたのが午前8時過ぎ、国道に出て東に10分も走ると、氷見という信号があった。石鎚山系の山々と前衛峰のような小高い山々が右手に見える。晴れ間が見えたかと思うと、雪がちらつくという変りやすい空模様だった。第63番札所吉祥寺を過ぎ、あてずっぽうで、その先の信号を右手の山の方に入った。両側に、民家が続く細い道をしばらく上がる。道が二手に分かれた所で、真ん中の三角地に合わせた形の民家が建っていた。この辺りの町並みは、坂道の両側に露地が通り、古い民家が連なっていて、ゆっくり時間をかけて歩いてみたいと思わせる雰囲気を持っている
 二つに別れた道を、左に上がりしばらく行くと横峰寺の方向に上る広い道に出た。行き過ぎたようだ。同じ道を引き返して、今度は、大きな古めいた屋敷の先の角を左に入ってみた。行き違った人に尋ねてみたら堀池酒造は、そのすぐ先だった。
 
堀池酒造場

- 石鉄山の道標 -
 堀池酒造場の店は、美しい連子格子の出窓のある建物で庭の側には小さいが見事な彫刻のある古びた門があった。ガラス戸を開けて、「ごめんください」と声をかけたが、応答がない。携帯電話をかけてみたら、目の前の帳場の電話が鳴り、しばらくして奥から、おじいさんが現れた。昨日、電話を掛けたものだと名を名乗ると、一度奥に入って「加茂の春秋」の原酒を1升瓶に詰めてくれた。堀池酒造は焼酎では日本一をとったことがあるそうだ。明治のはじめ頃の創業で、酒銘は「堀の井」など。清酒のほかににごり酒、焼酎や、朝鮮人参酒、原酒、にごり酒もあるという。店の建物は日清戦争の頃に建てられたものと思うが、はっきりしないという。私も詳しく尋ねるのはひかえた。


- 堀池酒造場 -
表紙絵は1989年に描かれた。
現在は地震の後撤去した煙突がない。
 店を出て左に行くとすぐ先の突き当たりのT字路に漆喰が落ちて土壁がむき出しになった蔵があった。つきあたりに空地があったので、車を止めさせてもらって「堀池酒造場」の方を振り返ってみた。店と住宅、庭の右手に続いて大きな酒蔵が見える。絵の構図を重ねてみると、18年前に先生が絵を描かれたであろう場所が大体わかった。(右写真参照)
 空地の隅に、「堀池酒造場」の方を指した「左 石鉄山」という古い御影石の道標があった。右手に下る道を眺めると細い道の両側には道に向かって式台のある宏壮な民家が見えた。


- 堀池酒造場前の道 -

- 通りに向かって式台のある玄関の森家 -

- 氷見の民家 -
江戸時代のものと思われる。

氷見組大庄屋高橋家
 式台のある大きな民家を過ぎたところに、小松の四国霊場第62番宝寿寺への案内板があったので左に入った。少し行くと右手に大きな屋根が見えた。道に面して長い塀が敷地を囲み、小さいが立派な門がある。瓦が新しく葺き替えられた屋根の上には、小屋根がある湯気抜きのような塔屋が乗っかっている。氷見組大庄屋であった高橋家の主屋で寛政年間に改築されたものという。(『西条市誌』)
 戦国時代末期、近くに城跡がある高尾城主高橋美濃守が戦死の後、直系の子孫が氷見に土着して帰農し、藩政時代を通じて、代々氷見組大庄屋を務めてきたという。
 高橋家から道なりに旧道を下って行くと、大正時代に架けられた小松橋を渡り、国道に出る。


- 造り酒屋が見える氷見の道 -
芝井水大師への案内板もある。

- 芝井水大師 -
昔から野菜を洗ったり、洗濯に使われていた氷見の露地にある湧水に大師がまつられ霊場となっている。

- 氷見組大庄屋高橋家主屋 -
寛政年間に改築されたという。

禎瑞へ
 少し空が明るくなったので私は、久しぶりに禎瑞の難波に行ってみようと思った。小松から国道を東に曲がり、氷見の駅から道を海に向かって曲がった。畑が広がる禎瑞新田の中を進み、新しく出来た道を越えて中山川の堤防沿いに行くと難波の集落である。雪をいただく石鎚山の全き姿が水に浮かぶ集落の背後に見える所である。江戸中期に西条藩主松平頼謙の命によってこの広大な干潟の干拓が行われた時の御影石の樋門も残っている。晴れ間が覗いてはいたが、山は雪のようで、空が煙り今日も石鎚はぼんやりとしかみえなかった。私は難波から土手沿いに走って、嘉母神社に参詣し古川橋を渡って西条の市内に入った。
 市役所に寄って、市誌をもとめようと思ったのである。市誌の在庫はなかったが、氷見組大庄屋高橋家についての記述と西条市の酒造業についての部分を複写させてもらうことができた。


- 小松橋 -
大正12年架橋。

- 嘉母神社への道 -

西条の酒
 複写させてもらった市誌の酒造業の項にこんなことが書いてあった。 「上代では「さけ」というと、濁酒である。今は後世の製法による清酒を酒というようになっているが、それがならんで販売されていた時代に、濁酒を売る店は、酒の婦人語を「ささ」と呼んだのに因み、店頭に笹の葉を掲げ、清酒を売る店では、酒旗とか、酒ばやし(杉の枝をたばねて大きな玉を作ったもの)と称するものとかを看板にした。寛延頃(18世中頃)までは主として濁酒であったようである。」  西条の酒造業は豊富で良質な水に恵まれ、石鎚下ろしの寒さが冬の酒造に向いていたため、今日まで多くの酒銘が伝えられているそうだ。藩政時代には領内で他国の酒の飲用が制限されるなどの地酒保護政策もとられていたという。


- 旧西条藩領氷見組に属した禎瑞の難波 -
 市誌には、昭和三十九年当時の西条市内にあった四軒の醸造元が記されているが、その内3軒が氷見の在であった。また、清酒の他に禎瑞では幕末から穀醸焼酎がつくられていたが、一時途絶え、明治になって打抜井を利用して再興されたともあった。堀池酒造場の品揃えにも近世の西条の酒の歴史が反映しているようであった。 今夜は家に帰って「加茂の春秋」の原酒をいただくことにしよう。

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