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吉田町立間、郷蔵谷にある飯淵貞幹の屋敷跡
第132回 神風連、西南戦争と南予
 その1 神風連と伊予吉田
 宇和島市吉田町
 熊本神風連の乱で生き残った人々が、西南戦争の勃発にともない、熊本から松山藤原の獄に移送された。その獄舎には、西郷軍に呼応して起とうとして事前に検挙された宇和島、吉田、大洲の各藩の国事犯がつながれていた。

 (それぞれの写真をクリックすると大きくなります)
国安の郷へ

- 飯淵貞幹が獄中で得た木切れに書いた述志の詩 -
「男児たるもの正大の気をのばし、元に抗して屈せず、獄に投ぜられた宋の遺臣たちに負けぬ忠節を尽くしたい」というような事が書いてある。
 四月号に熊本神風連の乱で生き残った人々が、西南戦争を避けるため熊本から移されて、松山の藤原の獄に収監されたこと、そして、同じ獄舎には、西郷軍に同調して獄に投ぜられた宇和島、吉田、大洲の3藩士34名がいて、中でも大洲藩の武田豊城や吉田藩の飯淵貞幹らと獄中記『獄の憂き草』を書いた緒方小太郎ら神風連の人々との間には、和歌や漢詩など文学の道を通じて深い交流があったことなどを書いた。
 先日、記事を読まれた宇和島市役所吉田支所の学芸員秋田通子さんが、吉田町の郷土資料館「国安の郷」に、熊本神風連の人々が、飯淵貞幹ら南予の国事犯に獄中で書いて記念におくった和歌や詩、絵が約100点以上も保存されているということを知らせていただいた。宇和島の古書肆に出ていたものを旧吉田町が購入し、所蔵したものであるという。どこから古書肆の手に渡ったものかは判然としないが、これらの書画を贈られた人はおそらく飯淵貞幹であろうと思われる。とにかく、見せていただけるということなので、その翌週、秋田さんを吉田町の「国安の郷」にたずねた。
 「国安の郷」は吉田藩の御用商人三引高月家の宏壮な主屋を移築して中心とし、武家屋敷や、農家、漁家など江戸期の暮らしを見ることが出来る家屋を復元して周囲に配した、一種の郷土資料館である。場所が国道56号線からほんの少し奥に入っているためか、素晴らしい施設であるのに、ふだんは来館者が極端に少なくひっそりとしている。

獄中詠

- 緒方小太郎の書 -
 秋田さんは法華津屋の庭に面した座敷で神風連の人たちが書き残した和歌や絵などを用意して待っていて下さった。これらの書画は、獄中にあっての制約のゆえか、すべて1枚の半紙を4等分した大きさのものに書かれている。書いた人の名と号、その生涯の摘録が付されていて、1人分ずつにきちんと整理されていた。略歴は誰が書いたものか、又何に拠ったものかわからない。『神風連血涙史』などと比べると多少の齟齬も見える。
 私は先ず、秋田さんに、神風連の参謀を務め、獄中記『獄の憂き草』を書いた緒方小太郎のものを見せていただいた。緒方は「廣國」あるいは「弘國」の号で、多くの歌を書いていた。しかし、せっかく見せていただいたのに、緒方のものをはじめとして、神風連の人々の書は、20歳の青年が書いたものまで、例外なく、達筆であって恥ずかしい事に、私には、ほとんどの歌が判読できない。写させていただいた写真を見て頂くしかない。(どなたか、読める方にご教示を得たい。)
 昭和19年に刊行された『神風連烈士遺文集』の和歌編には、ほとんどの神風連の人々の和歌が掲載されている。そこに収められた緒方の歌19首と、吉田に伝えられた歌とは、尊皇攘夷の決意や獄中での心境を直截に表現したものであるという点で、歌いぶりや、内容的には重なっている。だから、吉田の歌は活字になった同書の歌とは別のものではあるが、緒方の歌を知っていただくために、何首かご紹介しておきたい。

夷船神のいふき(息吹)に砕けたる昔の浮かぶ月を見るかな

獄窓より月を見て
しかばねの上に照らさむ月影をかくて見むとは思ひかけきや(おもいがけきや)

折りにふれたる(獄中詠)
あさ毎にひとや(獄)の露のおき出でて今日や消えむと思ひけるかな

角田新太郎獄中に死するを同じ獄にありて
いかなれば脆く散りけむ春花の今をさかりの大丈夫にして

ともに見し昨日の櫻けふ(今日)はまた君が手向けと散りまがひつつ



- 角田新太郎の書 -
最後にあげた歌は、藤原の獄で病を得て、20歳の春に獄死した角田新太郎を悼む歌である。角田はわずか17歳で、権令安岡良亮の討手に加わり、参事小関敬直を斬り、更に仁尾1等警部を傷つけ、自らも負傷したが屈せず、歩兵営で戦った後、自首したという。角田は幼にして学を好み、よく孝養を父母に致したと『神風連血涙史』にある。
 獄死した角田新太郎の歌もあった。号は秀臣。写真の歌は少しだけ読める(読み間違っているかもしれない)。
ひとや(獄)に月を見て
益荒男のあかきこころ
(「あかきこころ」のところが違っているやもしれず)のくまなきをさやかに照らせ秋の夜の月
前掲の遺文集和歌編に載っている、角田の遺詠を転記する。
いつしかと弓腹ふり起し夷船射返さむ世をまちにこそ待て
緒方は熊本の獄に居た頃から、実の弟のように角田に接していた。『獄の憂き草』には病が重篤になり、父母の名を呼んで慕い嘆く角田の哀切な姿が書き留められ、前掲の追悼歌が記されている。
 緒方や角田ら神風連の人々が作った歌の調べはどこか一様であって、技巧もどちらかといえばつくされてはいない。攘夷の歌は、今の時代感覚からすれば、偏狭で激越な感じもする。しかし、彼等の心が動いた時にこれらの「拙い」歌が、心のうったえるままに作られたのであろうことは間違いのないことであろう。しかも、歌を詠む事で自分のこころを表現することが、彼等の日常の生き死にの中に普通にあったということには、私のように歌を解せぬ者さえ心を動かされる。
 私は、半紙をつましく4つに切って書かれた彼等の歌を見ていて、脈絡もなく、本居宣長の「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」という歌について書いた石川淳の文章を想起した。
 石川淳は、後に神風特別攻撃隊の隊の名にも使われたほど、よく知られたこの歌について、次のように書いている。
「歌いぶりはいかにも拙劣ではあるが、歌の真意はとくに反対派(わたしをもふくめて)の感情をたかぶせらせるようなたちのものではない。またこれをののしる側にも、歌の解としてどうやらゆがんだけはいがする。そこで、あえて泥だらけの歌についてわたしの解するところを左に示す。
「敷島の大和心」とは、まず31字の歌1首の形式を整えるための修辞である。敷島の大和は日本のことにはちがいないが、この修辞の意は、「これは外国から輸入した心ではないぞ」というほどのところにある。この心とは、すなわち漢意をも仏意をもきびしくしりぞけた当人の宣長の心にほかならない。宣長平常の主張がここにある。自家の主張が歌にまでつよく出たからといって、この個人の心をすぐ日本人一般の心の方に拡大して行って、さらに排他的な愛国心の方にまで引きずりこもうとするのは、どうも力ずくの無理押しの曲解のようにわたしはおもう。けだし後世の解釈の悪い癖である。この歌は、その意をすこしバカ丁寧に現代語にうつしていえば、おれは、この国にうまれた人間だ。このおれの心はいかなる心かと人が問うなら、晴れた日の朝まだきに、おれがもっとも好むところの、他国の産にはない山桜を見てくれということになる。……すべての修辞をとりはらって、ずはり一言でいえば、なんのことはない、「山桜はおれだ」といっているだけのことである。このおれは(歌の不出来までふくめて)まさに宣長その人である。そういっても、たったこれだけの、しかも切実な心情を表現するのに、いかに「コジキ伝兵衛」にもせよ、なんとまあ泥くさい、まわりくどい、いやらしい歌いぶりだろう。宣長の口吻をまねていえばえもいはぬわろき歌」である。……
 鬼神の感じるところは政治とか道徳とかいうごとき人間のさかしらには係わりあわない。宣長が歌に於てまっさきに見つけたのは情である。情を表現すべきことばのはたらきである」


- 神風連の宮本篁十郎が描いた「雛人形」 -
(「本居宣長」『石川淳評論選』ちくま文庫所収)
 長い引用をしたが、死生の間にあって歌をつくりつづけた神風連の人々の心映えには、どこか、石川淳が、すぐれた歌論を裏切るような、ポエジイの欠けた「ふつつかな歌をあきれるほど多く一生作りつづけてついにやむことを知らなかった」と書いた宣長の歌いぶりに通じる一途さを感じたのである。
 秋田さんに、緒方や角田の他にも、何人かの歌を解読してもらったが、歌に対する印象は変らなかった。獄舎で病みがちであったという宮本篁十郎が描いた、雛人形や柚子の絵なども見せていたたいた後、私は、秋田さんに案内していただいて、吉田町立間の郷蔵谷にある、飯淵貞幹の邸跡をたずねてみた。飯淵貞幹の家は宇和ゴールドという「甘夏柑」の畑の奥の山間にあった。
(つづく)

 
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