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第106回 宇和島散歩
~天赦園から神田川原(じんでんがわら)へ~ 
愛媛県宇和島市 
 3月の終わりの土曜日に宇和島に出かけた。7代藩主伊達宗紀(むねただ)春山が隠居して築庭した天赦園を見た後、神田川(じんでんがわ)に出て、泰平寺や法円寺に立寄って先人の墓を巡り、川沿いの道にそって町歩きを楽しんだ。

馬上少年過
 天赦園は1年ぶり位だった。午前10時少し前、戦前、偕楽園にいた鶴の剥製が飾られた受付で300円の入園料を支払って庭に入った。数人の人たちが草を引いたり、落葉を集めたりしているが、まだ入園者の姿はない。最初に、いつものように、潜淵(せんえん)館の手前の南御殿跡の芝生の原っぱを横切って、庭の東南隅を源とする「枯流れ」を見に行った。楠の巨木や竹林を背景に、拳ほどの黒玉石が川の流れのように敷き詰められている。上流から中流、河口の宇和島湾を象徴する庭の中心の池の端まで、様々な石組が配されて景色が作られている。この「枯流れ」は春山が天赦園の名の元になった仙台藩の藩祖伊達政宗が晩年につくった漢詩に仮託して、自己の生涯と宇和島の地形を表現したものと言われている。春山は7代藩主になるとすぐに、疲弊の極にあった藩財政の建て直しに没頭した。事が成り、老境に入って隠居した春山は、敬慕する政宗が戦国の世に馬上で若き日を送り、伊達家の礎を築いたことを自分のアイデンティテイとして強く意識したのであろう。枯流れの源近くには、政宗の眼光を思わせる子持石が据えられ、地味な色調の和泉砂岩の石が多く使われたこの庭にはめずらしい明るい色合いの石が1つだけ配されている。この石は、ローマ法皇に使節を送った政宗の開明性、南蛮趣味などを表しているのだという人もいる。流れが広がりを見せる中流には、虎吠(こけん)石や起牛石、臥牛石などの名が付けられた巨岩や奇岩が置かれている。群雄割拠の時代を表現したものという。そして、枯流れが海を表現しているという池と出会う場所に据えられた雪見灯籠は宇和島城か御殿を象徴しているものと考えることができる。この庭は一見、大名庭園としてはつつましく、小さく見えるかもしれない。しかし、一旦、庭の細部に込められた作庭者の意図と精神性に触れると、思いもかけぬ気宇の壮大さが立ち現れてくる。

神田川原(じんでんがわら)
 天赦園を出て、右に行く。戦前に建てられた煉瓦の蔵がある古風な民家の前を通り、神田川に出る。小さな橋を渡って左に折れるとすぐ、川沿い右手に曹洞宗の神田山泰平寺である。6年前の夏に「宇和島掃苔録(そうたいろく)」という記事を書いた。寺の名に藩主の法名を付けた龍華山(りゅうげざん)等覚寺と金剛山大隆寺を巡った後、神田川にそって泰平寺から大超寺まで明治維新の頃に活躍した伊達家ゆかりの人々、漢詩人中野逍遥やジャーナリスト末広鉄腸ら宇和島が輩出した様々な人々の墓を巡った。泰平寺には大政奉還など維新の政局で伊達宗城(むねなり)の意を受けて活躍した得能亜斯登(とくのうあすと)と都築温(つづきあつし)、江戸後期に宇和島藩教学の祖と讚えられた安藤陽州を助け、藩の子弟教育に尽くした藤好南阜(ふじよしなんぷ)、ダダイスト詩人高橋新吉などの墓がある。維新に活躍した2人は、明治になって後は官を嫌い、帰郷して故郷のために尽くした。得能の墓は墓地中央お地蔵さんの後方に、都築の墓は寺門の脇にある。藤好は晩年、自らが奉じる古学派(こがくは)の人気が衰えた時、「臣が学派既に一定(いちじょう)せり、時に随いて浮沈するあたわず」と軽薄な世の移ろいに超然としていたそうだ。陽州や南阜が育てた向学の気風が幕末に宇和島が西欧の学問を吸収する下地を作ったことは記憶されるべきことである。南阜の墓は墓地入口すぐの右手にある。ダダイスト新吉の墓は墓地に向かって左手の山手にある。お寺の人に聞かなければ少し迷うと思う。ダダイズムに若い血をたぎらせた新吉の「墓碑銘」という詩に『私の墓碑銘は「太陽と格闘した男」として貰いたい』とあるが、墓石には、父高橋春次郎の名が見える。泰平寺に眠るこれらの人々に何の共通点もないが、なんとなく宇和島人の気風というものを思ってしまうのが不思議である。寺の門をくぐってすぐ左の庫裏に「喫茶去(きっさこ)(さあお茶をどうぞの意)」の扁額がかかり、寺を訪れた人が小憩する場所が拵えてあった。
 泰平寺を出て、川沿いに少し上がると牛鬼の図案がある洒落た案内板に、大村益次郎40メートルとあった。村田蔵六、後の大村益次郎は伊達宗城に招かれて嘉永6年(1853)から4年間を宇和島で過ごし、兵書の翻訳や砲台の築造、軍艦の建造をすすめた。そのときの住居の場所である。今は、宇和島における大村についての簡単な説明板があるだけで、当時をしのばせるものは、川沿いから眺める宇和島城の天守閣との距離くらいしかないが、司馬遼太郎や吉村昭の小説を読んで訪れる人が多いようだ。今日もカメラを持った人が案内板の写真を写していた。

漢学の墓
 コンクリートで塗り固められて風情を失った川沿いの道を歩いていると、所々に昔の武家屋敷を思わせる家がある。法円寺は川沿いから右手に1本入った道沿いにある日蓮宗のお寺である。境内には立正保育園があり墓地は本堂の背後にある。この寺には漢学者左氏珠山(さししゅざん)の墓がある。珠山は、文政12(1829)年、伊豫国西宇和郡舌間(したま)村、現在の八幡浜市大字舌間(したま)に生まれた。父は修験者だった。泰平寺で禅を学んだ後、21才の時に宇和島藩校明倫館の儒学者上甲振洋の弟子となった。西予市卯之町の申義堂などで中国の古典を講じた後、宇和島の明倫館や愛媛県尋常中学校(松山中学)などでも教えた。
 珠山は明治28年(1895)、松山中学(愛媛県尋常中学校)に赴任して1年間英語の嘱託教員を務めた夏目金之助と同僚であった。『坊っちゃん』に「漢学の先生はさすがに堅いものだ。昨日お着きで、さぞお疲れで、それでもう授業をお始めで、大分ご励精で、とのべつに弁じたのは愛嬌のある御爺さんだ」とある。この漢学の先生のモデルが珠山だと喧伝されている。当時、松山中学で漱石と珠山に習い、後に漱石の主治医として臨終に立ち合った真鍋嘉一郎は1語1語を逐語的に訳していく漱石の授業と、漢学の珠山の講義ぶりにどことなく共通するものがあったと回想している。漱石は少年の頃から漢学が好きだった。実母が亡くなった明治14年には東京府立第一中学を中退し二松学舎に入ったこともある。珠山が糟糠の妻加寿(かず)を腸チフスで失ったのは松山中学で教えていた、明治28年の8月6日のことである。着任約4ヶ月の漱石は漢学の妻の葬儀に参列したであろうかなどと、珠山の墓を見ながら想像する。珠山の墓は、墓地奥の高台、宇和島伊達藩4代村年夫人の大きな五輪塔の隣にある。私は珠山の墓を最初に訪れた雨上がりの日に、帰りの下りで足を滑らせて尻餅をついた。墓への道は心持ち急である。法円寺は土佐中村出身の幸徳秋水が上京前に若き日の3ヶ月を寺男として過ごした寺でもある。
 墓を巡っているうちに、昼が近づいてきた。神田川を渡って、かつて上級士族の屋敷が連なっていた鎌原(かんばら)通りの辺りを少し歩き、教会の前を下って、車を停めた天赦園の駐車場に戻った。昼ご飯は、鶴島町のヴィオロン・ダングル(TEL:0895-26-2344)へ。おまかせのランチを食べたが、緩みのない、相変わらずの美味しさ。食べ終ったら、シェフの岡さんが久し振りに顔を見せてくれた。

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1996-2012


法円寺
宇和島市神田川原。境内に立正保育園がある。
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天赦園の枯流れ
南御殿跡の南側にある。庭を作った伊達春山の意図が込められた様々な景色があり、天赦園の中でも、庭を読む興趣に富む一角である。

泰平寺
曹洞宗。山号は神田山。山門をくぐった右手に「喫茶去」が出来ていた。

大村益次郎
神田川沿いに立つ、村田蔵六(後に大村益次郎)の住居跡の場所を示す標識。